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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #25

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永遠の森25

第三章 飛躍のドイツ留学 (9)
ドクトル・ホンダの凱旋

あとは学位授与式を待つばかり。それは社会的地位の高さにふさわしく厳粛な式典で、新たにドクトルとなる者は時事問題についての演説を行うのが慣例だ。
あくまで儀式だが、日本という国を背負っているという気概の静六にとって、恥ずかしいものにはできない。
加えて、現地の新聞に次のような広告が出た。

〈今回、日本留学生本多静六君がドクトルの論文と口述試験等に合格した。そこで三月一〇日、ミュンヘン大学の大講堂において 関税同盟という時事問題についての演説討論会を開催する。参加希望者は当日午前一〇時までに参集されたし〉

俄然やる気が出た静六は入念な準備に入った。
少し肩に力が入りすぎていたのかもしれないが、彼は少々芝居がかったことをはじめる。西洋のインテリなら皆知っている古代ギリシアの雄弁家デモステネスの故事にならい、滝のように流れの激しい場所で演説の練習をはじめたのだ。
『洋行日誌』にはイルベ川と書かれているが、エルベ川としても遠すぎるので、おそらくイーゼル川の間違いかと思われる。
「積雪三尺をかきわけ滝の前に立つと、デモステネスもかくやと弁舌を振るい…」
というのは、後年彼が興に乗ってくるとドイツ留学時代を思い出して語り出す得意の場面だ。実際、練習を終えてから持ってきたステッキを取ろうとすると凍り付いていて、力まかせにひっこ抜くと氷片がぱっと周囲に散らばったという。
「あの外国人は気でも違って自殺するんじゃないか…」
そう心配する声も出たほどだった。
だが静六は歯ごたえを感じていた。毎日弁当を持って通ううち、演説に自信がついていった。

そして三月十日の学位授与式当日を迎えた。この日、彼一人のために全校が半休になった。
朝から床屋に行ってひげを剃り、下宿の主人から借りたフロックコートに白い手袋、白い襟飾りという礼装に着替え、午前十一時、大学から迎えに来てくれた二頭立ての馬車に乗り込んだ。
大学に到着すると教授たちはすでに参集している。教官室でアカデミーの帽子をかぶり刀剣を佩用させてもらって準備万端整った。
教官室から大講堂へ大学総長に伴われて向かったが、廊下まで人があふれ、大講堂は立錐の余地もない。大講堂正面に飾られたバイエルン国王の肖像画を背景に、その前に置かれた演台に案内された。
会場を見渡してみると、青と赤の美しいガウンをまとった教授たちが両側にずらりと並んでいる。この晴れの舞台で、静六は練りに練った五〇分間の演説を行なった。みな真剣に聞いてくれ、粛として声もない。その後の質問にも答え、悠然と壇を降りた。
すると総長がつかつかと歩み寄って彼に手を差し伸べ、
「ドクトルホンダおめでとう!」
と握手してくれた。
感動の瞬間だった。いろいろなことがあったが、これですべてが報われた。目に涙がにじみ、にこやかな総長の顔が揺らいで見えた。
帰りの馬車はウェーベル教授の令嬢たちから贈られた色とりどりの花で飾られ、さらに参会者が我も我もと花を投げ込んでくれたので、車上の静六は結婚式の新郎のように花で埋もれた。それは生涯忘れ得ぬ光景であった。

それから毎晩のように送別会に招かれ、先生や友人たちから名残りを惜しまれた。
もうブレンターノ教授ともわだかまりはない。静六の努力と才能を認め、同じ学問の世界の人間として温かく迎え入れてくれた。
おそらく静六が必死に節約しながら生活してきたことは教授の耳にも届いていたのだろう。はなむけとしてこんな忠告をしてくれた。
「学者であっても、独立した生活ができるだけの財産を作らねばならない。そうしないと、金のために自由を奪われ、精神の独立も生活の独立もおぼつかなくなる。財産を作る根幹は、やはり勤倹貯蓄だ。貯金がある程度の額に達したら、他の有利な事業に投資するがよい。貯金を貯金のままにしておいては知れたものである。今の日本なら、幹線鉄道と安い土地や山林に投資するがよい。幹線鉄道は将来支線の伸びるごとに利益を増すことになろうし、現在、不便な山奥にある山林も、世の進歩と共に鉄道や道が通って都会地に近い山林と同じ価格になるに違いない」
静六は教授の言葉を終生忘れることはなかった。そして実践した。ヨーロッパ最高の学者に認められ、親身なアドバイスまでもらったことは彼の人生の宝となった。

今度は西回りで帰国し、イギリスやアメリカを視察していこうと考えた。各国の林政が実際にどう行われているのか知りたいという強い思いがあったからだ。
だがそんな金がどこにあったのか?
驚くべきことに、彼は例の倹約によってギリギリの旅費を残していたのである。おそらく彼のことだ。学位取得に二年でなく三年かかることも覚悟していたのではあるまいか。行きの船で三等に乗って倹約したことも功を奏した。
ミュンヘンを出発した静六はまずはドイツ国内を回った。
ドクトルになると一気に名声が上がって講演の依頼が舞い込んでくる。行く先々で講演を頼まれ、歓待を受けた。その謝礼金が結構な金額になったので、カナダまで足を伸ばすことを考えはじめた。
倹約するところは倹約する、使うべき時には思い切って使う。それは終生変わらぬ彼の生き方であった。
そして静六はイギリスへと渡った。当時のイギリスは世界一の大国である。
留学仲間の坪井次郎の紹介により、ロンドンに留学中だった坪井正五郎(次郎の従弟で後に人類学者として名をはせる)を訪ねた。銓子が夫人の通訳をしていた河瀬真孝子爵がイギリスの全権公使になっていたので、こちらにも種々世話になった。
海外には日本のトップエリートがいる。そうした人と積極的に交流した。そのことが静六の広い人脈に繋がっていくのである。
極めつけが北里柴三郎との出会いだった。共通の友人である後藤の話で盛り上がり一度に仲良くなって、アメリカに渡るなら同じ船に乗ろうではないかと誘われた。
実は北里は船にことのほか弱かったのだ。ところが静六も久々だったので、乗った当初は気分が悪くなって部屋で休んでいた。
すると北里がヨロヨロしながらやってきて、
「君を頼りにして同船してもらったのに、そんな風では頼りないなあ」
と、鬼瓦のような顔に似合わず目に涙を浮かべていたので、静六は思わず吹き出してしまった。
七日目にニューヨークに着いた。
当時、北里はコッホの高弟として七年間もアメリカ留学生の研究指導の任に当たっていたから、ニューヨークの医学界には北里の世話になった研究者が山ほどいる。静六も一緒に食事の招待を受けた。
行く先々で歓待されるので食事代はかからない。懐具合は予想以上に豊かだった。
カナダに渡った静六は、モントリオールから当時できたてのカナダ太平洋鉄道のコロニアルカー(三等植民列車)でカナダの各州を視察し、バンクーバーで再び北里と一緒に帰国の船に乗り込み、五月二八日無事横浜に上陸。
二年二ヵ月ぶりの故郷の土であった。
短歌の得意な義父晋は一首詠んでいる。

――やしなひの親の名さへも海の外に 揚げて嬉しき山ほととぎす

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