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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #31

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永遠の森31

【山林王・土倉庄三郎】

第四章 緑の力で国を支える (1)
山林王・土倉庄三郎(前編)

静六が帰国した当時、日本の林業で一人気を吐いていたのが吉野の〝山林王〟土倉庄三郎(どくらしょうざぶろう)だった。
静六は彼のことを深く尊敬し、謙虚にその技術に学んでいる。
本多静六という人物は強烈な上昇志向の持ち主だが、威張ることが目的ではない。威張りたければ留学帰りを金看板とし、日本の林業など歯牙にもかけない風を装えばいいわけだ。だが彼はそうしなかった。留学で学んだ知識を世に広める努力をする一方で、すでにこの国にある造林のノウハウを徹底的に吸収しようとした。
帝国大学農科大学助教授でありながら土倉に私淑したところに、飽くなき知の追求という意味での彼の学問に対する真摯さを感じる。
「人生は全て向上の過程であり、社会奉仕の努力である」
という彼の言葉を、我々はかみしめるべきであろう。

ここで土倉庄三郎の人となりについて触れておきたい。
天保一一年(一八四〇)四月一〇日、大和国吉野郡大滝村(現在の奈良県吉野郡川上村大滝)に生まれた。家は代々吉野で林業を営んでいた。
ひょろりと背が高く顔の表情は柔和である。だが内に秘めた情熱はこの上なく熱いものがあった。
功成り名を遂げてからも出自を飾ることに関心はなく、資産家の集りでみなが競うように先祖自慢する中、
「まあうちの先祖は山賊でしょうな」
と口にして、みなあっけにとられたという(『明治富豪譚』菊池幽芳編)。
〝超密植・多間伐〟という画期的な造林法を開発。そのため彼の植えた木には節がなく、年輪も均一で形は正円であった。
「土倉さんの植えた木はチェーンソーを入れるとすぐわかる」
と今でも言われている。
土倉の育てた無節の杉は良質な樽材として飛ぶように売れ、その名は全国にとどろいた。還暦の祝いに時の首相山縣有朋から〝樹喜王(じゅきおう)〟の号が贈られたほどだ。やがて彼は三井などの財閥に肩を並べる資産家となっていく。

植林のみならず、伐採した材木の運搬にも意を用いた。
私財をなげうって吉野川を浚渫(しゅんせつ)して川幅を広げ、堰(せき)を設け、筏にして材木を大量に運ぶことを可能にした。新たに道路を建設し、〝木馬曳(きんまひ)き〟というそりに乗せて運ぶ技術を考案して、これまで切り出せなかった山奥の木材資源の有効活用にも道をつけた。
彼の作った道は〝土倉道(どくらみち)〟と呼ばれたが、完成すると国に上納した。その公共の精神は、不二道の土持ちの行を彷彿とさせる。

社会貢献も行っている。
次世代を育てていこうという思いの強かった彼は、地元に立派な小学校を作ったほか、広壮な自邸に多くの書生を置き、その数は延べ一〇〇名を超えた。そのうち何人かは海外留学までさせている。
同志社大学、日本女子大学の設立に際しては、多額の寄付を行った。両校の設立は土倉の存在抜きには語れない。
自由民権運動に対する支援もし、板垣退助の洋行費をぽんと出してやっている。大隈重信も土倉に政治資金を頼っていた。彼のところへ資金援助の依頼に行く政治家は引きも切らず、地元ではこれを〝土倉詣(どくらもう)で〟と呼んでいた。

吉野と言えば、杉以上に桜が有名だ。後醍醐天皇以来、数千本の桜が山一杯に咲き、世界的に知られた桜の名所である。
これを守ったのも土倉だった。
明治新政府が打ち出した神仏分離令により、廃仏毀釈が全国に広がり、寺社仏閣の多い奈良は大きな影響を受けた。興福寺も廃寺となり、僧侶は全員春日大社の神官となり、五重塔は焼いて金属部分を転売されそうになったほどだ。
山岳信仰の山だった吉野も一時は寂れ、大阪の商人が全山の桜の木を薪とするために買い取るという話になった。そして吉野山の総代が土倉のところに、跡地に植える杉やヒノキの苗木を買いたいと言ってきたのだ。
それを聞いて驚いた土倉はこう言って住民を諭した。
「金は出すから、すぐに桜の木を買い戻しなさい。これからわが国は海外との交流もはじまる。その日のために、吉野山の桜は守らねばならない」
彼らは土倉の言葉に恥じ入り、吉野山売却の話を白紙に戻したという。
土倉の目には、外国人観光客で賑わう一〇〇年後の吉野の姿が見えていたのである。

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