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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #05

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第一章 勉強嫌いのガキ大将 (3)

折原家と不二道孝心講(続き)

富士講教主から絶縁を言い渡された後も、友右衛門たちは黙々と〝行〟を続けた。
明治一一年(一八七八)には、埼玉県庁付近の土木工事を〝土持〟の行として行っている。
これに対し、名県令として知られた白根多助(しらねたすけ)は「至誠報国不二道孝心講」と書いたのぼりを贈って労をねぎらった。友右衛門がいかに感激したかは、彼の戒名が至誠院報国孝心居士であることからも知れる。
明治一七年(一八八四)からの皇居内工事にも携わっている。
明治六年(一八七三)、宮殿として用いられていた旧江戸城西の丸御殿が焼失し、再建が急務であったが、洋風にするか和風にするかで論争があり、明治一七年になってようやく地鎮祭を迎えていた。
友右衛門は不二道孝心講を代表して奉仕を申し出、城濠埋め立て工事を手伝うことになった。皇后の行啓があり、信徒を労ったという記述も『明治天皇記』に見える。
〝土持〟の行の特徴は、老人から子どもまでの老若男女が、ともにできる範囲で作業に加わったことで、幼い日の静六もしばしば参加していた。
静六は、それ以外にも手伝いをしている。
友右衛門には周囲の数県にわたって三〇〇〇人ほどの弟子がいたが、農閑期になると弟子たちのところを回って信心の話をして歩く。静六も今で言う小学校六年生くらいの時分になるとしばしば連れて行かれ、前座として「天地三光の御恩」などを読み上げた。
彼は後年、大学の講義以外にも多くの講演をこなし、それが無類の名調子であることで知られた。それは講談師を真似て話し方に工夫を凝らしたことも一因だが、幼いころから人前で話をすることに慣れていたことが背景にあるであろう。
友右衛門の教えの中で、静六が深い感銘を受けたのが次の言葉であった。
「信心は自分の余徳でやるべきもの。人から金をもらったり無理をしてまでやるべきものではない」
実際、友右衛門は弟子たちの家に泊まらせてもらうときでも、必ず高級旅館の宿泊代ほどにもなる金を置いていった。社会貢献活動で得をすることを意識的に避けたのだ。

〈私がのちに社会事業のために尽くしているのも、この祖父の主義からで、余分に働いて得たものを蓄積し、それで公共事業に尽力するのであって、決して信心や慈善や社会事業などの名の下に、儲けようなどということではない〉(『体験八十五年』)

友右衛門はその後も〝行〟を怠らず、諸国を行脚し、富士登拝は六七回を数えた。その甲斐あって孝心講の勢力は関東一円に広がり、成田市西三里塚には今も〝孝心〟と刻まれた碑が残されている(富里市指定文化財)。
晩年、友右衛門は推されて不二道孝心講第一〇世大導師となり、明治三〇年(一八九七)五月、惜しまれつつ享年八四の長命をもって没した。
千葉県香取郡の吉田清左衛門が後継者となり、吉田の死後は静六の兄金吾が第一二世大導師に就任している。金吾は南埼玉郡会議員や郡長も務め、折原家の家長として、家庭と信仰の両方を見事に守った。

永遠の森5

こうして不二道は静六の中に深く浸透し、人生を歩く上での杖となった。
お天道様はお見通しであり、正直に働けば必ず幸せになれるという、後年彼が繰り返した教えもまた、幼い頃に教え込まれた信仰の延長線上にある。
生きている限り、人間は必ず〝恩〟を受ける。すると恩返しも兼ねて当然のように相互扶助を意識する。そこで〝行〟という実践で〝余徳〟を増やし、相互扶助の原資としていく。これは合理主義者で知られた静六からしても、きわめて理にかなった行動であった。
後に触れるが、彼が猛烈な克己心で行った朝草刈りも米搗(つ)き勉強もエキス勉強も四分の一天引き貯金も一日一ページ執筆も、すべては〝行〟の一変形にほかならず、日比谷公園などの設計や明治神宮の森の建設はまさに〝土持ち〟奉仕だったのである。
彼はこうした〝行〟を通して得た〝余徳〟を大正九年(一九二〇)、不二道孝心講に寄付して基本財産とし、昭和五年(一九三〇)には埼玉県の育英資金としている。
そもそも本多にとって山林は、学問の対象であるだけでなく信仰の対象でもあったのだ。
「自然は至善である」
と語った小谷の教えは静六の中に息づいている。

父の急死

明治五年(一八七二)八月に学制が公布され、静六は河原井学校に一年生として入学する。つまり彼は、この国に初めて小学校(当時は四年制)ができたときに新入生で入学したということになる。
卒業時には学校が台村に移転して台(だい)学校と改称。その後の啄玉(たくぎょく)尋常高等小学校、現在の三箇(さんが)小学校である。
啄玉(宝石を磨くという意味)は静六の命名だという言い伝えもある。改称は静六が日比谷公園を設計した明治三三年(一九〇〇)のことだから、可能性は十分ある。三箇、台、河原井という三村が合併してできた三箇小学校に比べ、校名の趣がやや異なるのは確かだろう。
当時のこととて、最初の教室は幸福寺の本堂である。これでは寺子屋と変わらないが、さすがに教えるのは和尚ではなく、新たに教師が派遣されてきた。
最初に教わるのは『三字経』である。〝性本善〟などといった三字ごとの平明な文章で、道徳や歴史、一般教養などを学んでいく。その中のいくつかは、八〇をすぎてからも暗唱できるほど記憶に残った。その後は『四書五経』や『蒙求(もうぎゅう)』などの素読。幼い頃の静六は本を読んだり字を書いたりすることが大嫌いであったが、地頭が良かったからだろう、成績は良かった。
しかし、どうしても一番になれない。二つ年上の傘屋の関根文吉がいたからだ。後に天才だとおだてられても慢心することがなかったのは、関根にかなわなかった体験があるからだった。
一番だった関根は優秀だというので学校の助教に採用されたが、静六は採用されず他の道を模索せねばならなかった。関根はやがて検定試験を受けて正教員となったが、師範学校出の人がいる中では校長にはなれず、生涯首席訓導で終わった。
後年そのことを知った静六は、少なからずショックを受けた。勉強で関根の後塵を拝し、旧制中学にも進まなかった自分が、その後、東大教授にまでなれたことに、運命の不思議を感じずにはいられなかったからだ。
それは後年彼が、自分は何が人と違っていたのかを徹底的に分析していくきっかけとなった。

父禄三郎は副区長の仕事で忙しく、勉強を見てもらうことはあまりなかったが、剣道は教わった。当時、この地方では神道無念流(むねんりゅう)の剣道が盛んで、祖父の友右衛門は免許皆伝、父禄三郎も目録以上だったというから相当な腕前だ。
静六が幼い頃には、月に六回、村の青年が折原家の広い庭に集まって祖父と父から剣道を教えてもらっており、静六もそれに混じって見よう見まねで木刀を振った。
文武両道に秀でた人格者の禄三郎だったが、残念なことにその薫陶を長く受けることはできなかった。明治九年(一八七六)五月二日、脳溢血で一夜のうちにこの世を去ってしまうのである。
前夜、いつものように晩酌を楽しむなど変わったところはなかったが、肩が張ると言って使用人に肩を叩かせてから床についた。そして翌朝やそが起き、頭が枕から外れているので直してあげようとした時には、もう身体が冷たくなっていたという。享年四二。
早死にした息子を不憫に思って、友右衛門は葬儀をことのほか立派にした。
近くの村から僧侶十数人が集まり、庭にのぼりを立て、銭や丸餅をまいた。葬列を見ようと、折原家の門から菩提寺の幸福寺までの一キロほどの道を人垣が埋め尽くし、村始まって以来の大きな葬式であったという。
父を失った時、静六はまだ満九歳一〇ヵ月。葬儀の盛大さに目を見張り、しばらくは寂しさを感じずにいたが、さすがに葬式の後は子ども心に暗澹(あんたん)たる気持ちになった。
働き盛りの家長の死によって、折原家は主たる現金収入の道が絶たれてしまう。
おまけに禄三郎は地域住民のために奔走して一千円(現在価値にして約一五〇〇万円)の借金を残しており、現金に換えられる資産はほとんど残していなかった。当時のこととて金利は年利一割。借金の返済が重くのしかかってきた。
実はこの翌年(明治一〇年)には西南戦争が起こり、インフレが発生している。その結果、借金の返済自体は少し楽になったはずだが、物価が全体的に上がるわけだから生活が楽になるわけではない。
次兄の吾造は東京の商店に丁稚奉公に出され、その後、資産家である白石家の養子となった。長兄の金吾も勉強どころではなくなり、下宿していた島邨家から戻ってきて家の仕事を手伝いはじめた。

ここで祖父友右衛門が折原家立て直しの指針としたのが、不二道孝心講の〝行〟である。
朝食はご飯と塩だけで済ます塩菜の行をやり、極度の緊縮生活を続けた。気合いを入れるため、毎朝水行をした。静六も祖父のいいつけで水をかぶった。寒い時期など大変辛かったが、水行をした後の心身の爽快さは得難いものであり、つらいことをした後でなければ爽快な気分を得られないことをしみじみ思い知らされた。
今まで遊びに熱中していた静六も、父を亡くしてからは心を入れ替え、家の仕事を手伝うようになった。
学校へ行く前には朝露を踏んで星川の土手に草刈りにでかけ、かごいっぱいに詰めて天秤棒に担いで持って帰った。冬になると草刈りの代わりに堆肥の足しとして馬糞拾いをした。
どこの家でもやることだから遅く行くとなくなっている。そこで彼は誰よりも早く起きて空のかごを担ぎ、馬糞がたくさん落ちているところに走って行き、そこからゆっくり拾いながら家路についた。家に帰るころにはかごいっぱいになっているという寸法だ。どんなことでも効率を考えるのが静六流であった。
不思議なことに、家計が苦しくなり畑仕事の手伝いもさせられるようになってから、かえって学問が好きになってきた。
彼は後にこう述べている。

〈人間というものは満ち足りた状態にある時には反発心も努力しようという気も起こらないが、不足不遇の状態にあるとかえって求むる心が強くなり、奮発努力するものだ〉(『体験八十五年』)

夜学へも進んで通いだした。学校の成績もグングン良くなり、ついには〝学問をして偉い人間になってやろう〟という考えさえ抱くようになった。
静六の〝自覚的努力〟の第一歩が始まったのである。

〝自覚的努力〟の第一歩

父親を失ってから一生懸命勉強し始めた静六は、桶川町のお寺で行われた第一八区内の小学生を集めた試験で意外にも二等賞を獲得し、太い毛筆一対の賞品をもらうまでになった。
その頃、彼が生まれて初めて〝浦和県判事桑原廉甫(くわばられんすけ)〟という官吏を見る機会があったことについて自伝で触れている。
公用の途中、折原家に立ち寄って昼食を取ったのだが、それを見た静六は激しく感動した。彼が心動かされたのは判事という仕事でも何でもなく、祖父の口にした、
「あの方は月給一〇〇円もとれる官員様だ」
という言葉だった。現在価値にして一五〇万円ほどである。
貧しさに苦しんでいたこともあり、月給の高さに反応したのだ。
(あんな偉い人になってみたい!)
父親が死なず、何不自由ない生活をしていたなら、こういう向上心を持つこともなかったかもしれない。この出来事をきっかけに、より一層勉強に精が出た。
蛇足ながら、もし桑原某が浦和県の役人だったとすると埼玉県に統合された明治四年(一八七一)以前の話ということになり、父の死の五年以上前のことになる。埼玉県の間違いにしても県の役人で判事というのは不自然だ。本多静六の自伝は青年期以降に関しては日記を元にしているので恐ろしく詳細で正確なのだが、少年期のことは記憶違いがあってもおかしくはない。
ともかく役人の高給に驚嘆したのは事実だったに違いないのだ。
何事も徹底する静六はその後、異常なほどの上昇志向を発揮していき、無邪気なほど立身出世を意識した。それは晩年まで変わらず、子どもや孫の出世にも目を細めたが、その出発点がこの役人との出会いだった。
もっと勉強するためには東京に出る必要があることは静六にもわかったが、当時の折原家の財政事情がそれを許すはずはない。
そこで友右衛門がよく口にしていた、
「信心は余徳でやれ」
という言葉にならって、
「学問は余力でやる」
ことを決意する。
家事を手伝う一方で、夜間に小学校の先生について勉強を始めた。他方、少しでも将来の勉強の費用に充てようと思い、お使いをしたりしたお金を一文も使わず天保銭にして貯蓄し始めた。すると天保銭は八〇〇枚ほどもたまった。母も兄も、静六が別人のように勤倹家になったことを喜んだ。
天保銭は言うまでもなく江戸時代の貨幣だ。ところが明治政府はすぐに回収することができず、一枚八厘(〇・八銭)として流通を許していた。ということは八〇〇枚で六円四〇銭になる。一銭は現在価値で一五〇円前後であったことから九万六〇〇〇円程度にはなるからたいしたものだ。家族が喜んだのもうなずける。
〝静六株〟が相当の高値圏に到達したのを感じ取った彼は、いい頃あいだとそっと東京行きを持ち出してみた。
だがこれは甘かった。
友右衛門から頭ごなしに叱り飛ばされ、母親も賛成してくれなかった。金吾だけは同情的だったが、肝心の友右衛門が反対ではどうにもならない。
しかし静六は上京する夢を諦めなかった。例の強情さが出たのである。
暇さえあれば上京を許してくれと頼みこんだ。その結果、静六が満一四歳になった時、例の一千円の借金も完済できたことから、ようやく上京が許される。
ただし友右衛門は条件をつけた。秋の麦まきが済んでから翌年の五月初めまでの約半年間の農閑期だけというのである。
それでも静六は鬼の首でも取ったように大喜びだった。
いよいよ上京するという時、友右衛門は静六にこう言って激励した。
「かの塙保己一は目が見えなかったにもかかわらず、六百六十余巻の群書類従を編纂した。おまえは目が見えるのだから、保己一のように勉強したらもっと大きな仕事ができるはずだ」
塙保己一は郷土の英雄である。その後も静六は何かくじけそうになるたび、この言葉を思い出して自らを鼓舞した。

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