【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #08
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第二章 暗い井戸の底をのぞき込んだ日 (1)
我が国林学の父・松野礀
東京山林学校は、山林行政を担っていく官吏養成を目的に設立された学校であった。
農政の養成機関としては、すでに駒場農学校が明治一一年(一八七八)に開校している。同校の開校式には明治天皇が臨席され、皇族や大久保利通内務卿なども参列した。農業振興が国の基礎であることは明治以前からこの国の基本思想であり、思い入れの強さがうかがえる。
林業も農業に遅れはしたものの、殖産興業の観点から重要視されていた。コンクリートなどのない時代、建設素材としての木材は今とは比較にならないほどの金銭価値を持ち、国富増進のための重要な資源と考えられていたからだ。
日本で林業が始まったのは江戸時代のことである。各藩は治山治水の観点や藩財政に資するため、森林を育成管理した。とりわけ奈良吉野の林業は有名で、節のない樽用杉材の育成などはすでに世界最高水準だったと言われている。
ところが明治に入って、林業は発展するどころか衰退を見せるようになっていた。理由は入会地(いりあいち)の問題だった。村民で山林を共有し、薪(たきぎ)を拾って火力とし、下草を刈ることによって、きのこ類も豊富にとれるようになる。入会地の里山文化は江戸時代の生活の知恵であった。
ところが明治政府がその多くを国有林や公有林にしてしまったことから混乱が生じる。もともと所有権の境界がはっきりしなかったこともあって紛争が絶えなかった。
すると今度は財政問題解決のために、政府は無計画に国有林の払い下げを始める。日光の杉並木も上野の山もあわや丸坊主になるところであった。混乱の中、明治の山林は荒廃の一途をたどっていった。
林業の近代化が急務と考えた政府は、ヨーロッパから法律制度や技術を導入することを考え、中でも林業先進国であったドイツに範をとろうとする。
ここで松野礀(まつのはざま)という、わが国林学の祖と呼ばれる人物が登場するのである。
松野の家は長州藩の郷士で、祖父は数ヵ村を束ねる大庄屋だった。
幼い頃に義兄・長松幹(後の貴族院議員、男爵)の勧めで長州の医学校で医学と蘭学を学び、その後、脱藩同様に上京してドイツ公使館の書記官や開成学校のスイス人教師などからドイツ語を学んだ。脱藩の際は変名を使うしきたりがあり、実家の大野と義兄の長松から一字ずつ取って松野と名乗った。
やがて彼の苦労が報われる時が来る。ドイツ語ができるというので、ドイツに留学予定だった伏見満宮(後の北白川宮能久親王)に随行するよう命じられたのだ。
伏見満宮は数奇な運命をたどった宮様だ。上野輪王寺宮に選ばれたことから旧幕府軍に担がれ、上野戦争から奥羽越列藩同盟の戦いまで転戦し、戦後はしばらく謹慎を命じられていた。
こうして松野は明治三年(一八七〇)、伏見満宮に随行してドイツに渡った。ここで彼は、同じ長州藩の留学生として二年前にドイツに来ていた三歳年上の青木周蔵と出会う。
当時のベルリンには一〇〇名ほども日本人留学生がいたが、そのほとんどが医学と兵学の留学生であった。
青木も最初は医学を志していたが、ヨーロッパの一流国に追いつくためには医学を勉強している場合ではないと、藩に無断で政治経済学部に転籍。医者になることを前提に長州藩医の家に養子に来ていたこともあって大問題となったが、ドイツ訪問中の山県有朋を説得して許しをもらった。
この決断により、彼は後に山縣、松方両内閣の外相として条約改正交渉などに取り組み、名外交官として歴史に名を残すのだ。
青木は政治経済を学ぶうち、ドイツの国力向上に森林の活用が大いに資していることに気づき、医学を学ぼうとしていた松野に林学を勧めた。そして松野は青木の助言をいれ、明治五年(一八七二)、ベルリン郊外のエーベルスワルデ山林学校(後のベルリン大学林学部)に入学するのである。
ちょうどそこに岩倉使節団がやってきたことから、青木と松野は同じ長州藩の木戸孝允にも林学の重要性を力説。松野の林学専攻に理解を求めた。
この時、同席していた大久保利通は机をたたいて、
「よくぞ気づいた!」
と林学に目をつけた二人を賞賛したという。
大久保は帰国後、彼らからのアドバイスを元に、内務省地理寮が中心になってドイツ式をモデルとした林政の青写真を描いた「大久保建白書」をまとめる。後の山林局設置も森林法制定も大久保建白書をもとにしたものだ。日本の林政の方向性はまさにベルリンで決まったのだ。
松野は明治八年(一八七五)に帰国後、内務省地理寮山林課に配属となる。
地理頭(後の局長)は二度の海外経験を持つ杉浦譲(ゆずる)。先述の大久保建白書をまとめたのも彼であり、杉浦は松野の良き理解者であった。
松野は早速ドイツで学んだ知識を実施に移そうと、杉浦とともに山林事業に取り組んでいくが、当時は藩政時代の山役人しかおらず、現場の指揮に当たる専門家が圧倒的に不足している。
林政の担い手を育成するべく、山林学校の設立が不可欠であることを思い知った。
ところが理解者であった杉浦は、木曽山中の現地視察の無理な山歩きがもととなって病死してしまう。杉浦の後任として地理局長となった櫻井勉(後の福島、山梨県知事)とは肌が合わず、しばらく鬱々とした日を過ごした。
だがここで救世主が現れる。同郷で、しかもドイツで農業政策の研究もしていた品川弥二郎が内務省少輔に就任したのだ。
「今は国家財政が逼迫している。一気に山林学校設立は無理だが、樹木試験事業なら…」
そんな言質を彼から得たことで、山林学校建設計画は一歩前に踏み出すことができたのだ。
松野は早速、東京近郊を馬車に乗って回り、樹木試験場候補地探しに奔走する。そして目をつけたのが茶畑の広がる北豊島郡西ヶ原の土地だった。適当な高低差があり湧水もある。早速、民有地三町余(約三ヘクタール)を購入した。
本当はもっと広く土地を確保したかったのだが、タッチの差で西半分を購入した人物がいた。それは、なんとあの渋沢栄一。コレラが蔓延している都内から郊外に移住しようと思ってのことだった。その場所は、渋沢が晩年を過ごした飛鳥山の邸宅と飛鳥山公園となる。おかげで後に静六が通った東京山林学校は当初計画より少し狭くなったというわけだ。
松野はこの地に、苗木見本園、陳列室などを備えた樹木試験場(後の林業試験場)の建設にとりかかった。この施設を将来学校に発展させようと考えていた彼は、陳列室などはいつでも教室に転用できるような作りにしてその日に備えた。
明治一四年(一八八一)に農商務省が新設されると、山林行政は内務省から農商務省の所管に移った。このとき松野は、まだ農商務卿代理だった西郷従道に改めて山林学校設立を建言してみた。
西郷従道は兄の隆盛同様、太っ腹で知られた人物だ。
松野の期待通り西郷の口から、
「おいどんがやりもっそう」
という言葉が聞け、念願の山林学校がついに日の目を見ることとなった。
だが予算は限られている。陳列館を教室に改装し、化学教室と材木置き場、学生寮を建設したら、設立費の六〇〇〇円はすべて消えた。
校名は東京山林学校に決まり、松野は農商務省の権少書記官と校長を兼務することとなった。この学校の校長の地位は一貫して高く、後には農商務次官が校長を兼任していた時期さえある。
こうして明治一五年(一八八二)一二月一日、開校式が農商務卿西郷従道臨席のもと行われた。この学校の存在は世間にほとんど知られておらず、最初の受験生はほとんどが知人の紹介か偶然募集を知った者ばかりだったという。
中村弥六(やろく)という、私費でミュンヘン大学に留学して林学を学んできた人物が教授陣に加わってくれたことは心強かった。予算の問題もあってか、設立当初はお雇い外国人抜きで学校を運営し、専門科目を松野と中村の二人で受け持ったというから相当な負担であったであろう。
松野は東京山林学校を去った後も、林業試験所(林業試験場、森林総合研究所の前身)や大日本山林会の設立に尽力し、〝我が国林学の父〟という名にふさわしい功績を残した。
実はそれだけではない。東京山林学校の校長時代、静六の運命を変える縁談話をもってきてくれることになる。
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