【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #20
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第三章 飛躍のドイツ留学
モテモテの留学生活
修学旅行から帰ってきて迎えた五月十一日は、ターラントに来て最初の日曜日であった。
「教会に行ってみないか?」
そう友人に誘われ、下宿の後ろの山の頂上にある教会に行ってみたところ、思った以上に壮麗な建物なのに驚いた。
日本人が行くと皆喜んでくれる。説教を聞いていると語学の勉強にもなる。それから日曜日には極力教会に行くことにし、銓子の伯母出口せいから餞別にもらった聖書が早速役に立った。
五月十五日はキリスト昇天祭で休校だった。
この日、午前五時に起きた静六は、兄金吾と不二道の信者百十五名に宛てて礼状をしたためている。留学費用の足しにしてくれと餞別をもらっていたのだ。現在価値にして何百万円という大金だったと推測される。そして金吾からは、彼らがその資金捻出のために行ってくれた塩菜行や煙草断などの詳細を記した行帳を手渡されていた。
静六はその行帳を常に机に置き、彼らへの感謝を忘れないよう心がけた。
礼状を書き終えると、学校に赴いた。入学に際し学校に贈呈するため、彼は日本から苗木五種と種子四七種を持参していたのだ。
不二道には種子交換会という行事があった。
小谷三志が始め、その後折原友右衛門に引き継がれたものだが、信者たちがいい出来の種子を持ち寄って交換し、品種改良しながら収穫高を上げていこうという試みである。そうしたものが身近にあっただけに、日本の植物をドイツに持って行ったら喜んでくれるだろうという発想は、静六の中ではごくごく自然なものであった。
植物防疫法などなかった時代の話である。
思わぬプレゼントに学校側は大変喜び、演習林に植えて大事に育成すると約束してくれた。
休みの日もなかなか忙しい。この日はユーダイヒ校長から昼食会に招かれていた。
遠国からの留学生を一目見ようと大勢の客が集まっている。彼らの好奇の目を前にして緊張気味の静六は、女性のエスコートや食事の仕方といった西洋流のマナーに戸惑ったが、ユーダイヒ夫人が手取り足取り指導してくれたのでなんとか切り抜けた。
その席でユーダイヒ校長は、静六が日本の植物を寄贈してくれたことを一同に紹介するとともに、静六が付した和洋の植物名のドイツ語説明が良く出来ていると褒めてくれ、大いに面目を施した。
肝心の授業の方は問題なかった。エキス勉強法がドイツでも威力を発揮したからだ。
例によって講義の内容をまとめたものを暗記しながら散歩する。散歩していると、地元の人たちがドイツ語で「おはよう」とか「こんにちは」と言葉をかけてくる。こちらは勉強しているので中断されるのは困るのだが、悪い気はしなかった。緑豊かで景色も良い。散歩道にはことかかず、健康的な毎日が過ごせた。
同じ下宿の山林学校の助手達とも友達になり、何くれと世話を焼いてくれた。彼の周囲のドイツ人はみな親切で、勤勉で、学問水準は高く、国も豊かで、どんどんこの国のことが好きになっていった。
静六のちょうど十年後に英国に留学した夏目漱石のように、大英帝国の傲慢で陰険で差別的な面ばかりが見えてノイローゼになってしまう者もいたことを考えれば、静六は大変幸運だったと言えるだろう。
万事順調だったが、問題は生活費だ。志賀先生から聞いてはいたが、日本にいる時の八倍かかったのには驚かされ、仕送りは大切に使わねばと肝に銘じた。
この地に日本人は静六ただ一人。学校のある日は懸命に勉強するので気が紛れているが、休日にはさしもの彼もホームシックになりかけた。
夕方、散歩がてら駅に行って誰か日本人が汽車で通りはしないかと見にいくこともあった。たまたま日本人に似た人に話しかけると中国人であることが多かった。中国人のほうが日本人よりはるかに多くドイツに来ていたのだ。
こうなったら、ドイツ人の中に溶け込むしかない。
満二十四歳の誕生日である八月十一日に、下宿へ友人を呼んで誕生会を開くことにした。下宿の主人から蝋燭立や花瓶などを借り、テーブルに七人分の食器を並べ、中央には花を飾った。机の上には日本から持ってきた錦絵を並べ、精一杯のおもてなしの気持を表して準備万端である。
昼のうちに女主人からこういう場合のマナーを習っておいたこともあり、会は円滑に進んでいった。
ドイツ人にとって極東の島国・日本の知識は少ない。向こうから持ってきた品々を見せると、みな好奇心で目をキラキラさせながら、それは何かと聞いてきた。
そして彼が特に力を入れて説明したのが、不二道の行帳についてだった。信者たちの清貧な生活がいかに厳しいものか、彼らの志が社会奉仕に意を用いたいかに崇高で有意義なものであるか。ドイツの友人たちに国境を越えて理解してもらうことが、支援してくれた信者たちへの何よりの恩返しになるという思いからであった。
果たして誕生会は大成功。すっかり彼らと打ち解けることができた。
留学時代の静六にとって、一番の楽しみはなんと言っても日本からの手紙だった。
受け取ると何度も何度も繰り返し読む。金吾が息子の写真を同封してくれており、かわいい甥っ子の姿に思わずニヤニヤした。
銓子は日誌を送ってきたので、本多家の様子が手に取るように分かる。
彼は『洋行日誌』の中で〝最愛なるわが妻の詳細なる日誌〟と書いているが、そんな銓子に実はちょっと言いにくい事情があった。
実はドイツ人の中に溶け込みすぎ、静六はモテモテになっていたのである。
そもそも彼は未婚者だということになっていた。
〈恩師志賀泰山先生からの注意で勉学上の便宜から〉
(『私の体験成功法』)
と書いているが、未婚者に一体どんな〝勉学上の便宜〟があるのかちょっと聞いてみたいものだ。だが本多静六という人はこうしたことであまり嘘をつくタイプではないので、おそらく何か事情があったのだろう…ということにしておく。
下宿には離れの二階屋があり、そこに女主人と一緒に養女のヘットウィッヒ(二十歳)という女性が住んでいた。良く世話してくれたが、彼女がややこしい事態をもたらすことになる。
ヘットウィッヒには三年以上同棲している彼氏がいたが、薄給だからまだ早いと養親から結婚の許しがもらえなかった。逆に養親は静六のことを金持ちだと誤信しており、静六との交際を勧めるそぶりさえ見せた。
ヘットウィッヒはそれをうまく利用する。
「ホンダさんは道も分からず一人ぼっちで可哀想だから、日曜ごとにいろんな所を案内してあげたい」
そう言って静六を連れて外出するのだが、前の通りの角を曲がると、そこには彼氏がちゃっかり待っている。自分のデートのダシに使ったのだ。
二人が仲良く手を組んで嬉しそうに話しながら歩く後ろ姿を見ながら、とぼとぼついて行くことになった。さすがにこれではあまりに気の毒だと思ったらしく、ヘットウィッヒは親友のヘレーネ(二十二歳)を誘って静六の相手役にした。
下宿と小さな川を隔てた小さな平屋に六十前後の母親と住み、仕立屋をしていた娘である。背は静六と同じくらい。〝ぽっちゃりとした赤ら顔。肉付きの良い可愛らしい恥ずかしがり屋の娘〟で好感が持てた。
日本から持ってきた絹のハンカチ(当時ドイツでは貴重品だった)をプレゼントしたり、花やお菓子を持たせて帰したりしたので、ヘレーネの母親にも気に入られ、お茶を一緒にすることもしばしばだった。
当時、静六は毎日日記を書いて一週間ごとに銓子のところに送っていたが、ヘレーネとのことは意図的に省略していた。その理由について銓子の没後に発刊した『私の体験成功法』の中で、〈私がヘレーネを友人以上に親しくするようになりかけたためであった〉と告白している。
ここにまた別の女性が登場する。
一学期が終わって夏休みになると学生の多くは帰省し、その代わりに都会から避暑客がやってくる。静六の下宿も皆帰省し、ベルリンから二人の女性が隣室にやってきた。
一人は郵便局長の娘エミー二十五歳、その姪ローザ十五歳。エミーは避暑といいながら、その実、婿探しに来ていたのだ。あいにく学生たちの大部分が帰省していたので、男不足の折から隣室の静六が的にされ、毎日散歩に誘われた。
そして彼女たちが帰るという前日、エミーはローザを先に帰して二人きりになると静六に愛を告白。強引にキスを迫ってきた。ちょうどそこへ、ヘットウィッヒとヘレーネが通りかかったので難を逃れたが、危ういところだった。
〈大学の学生たちが娘さんたちの的になるのは外国も同じであり、特に当時日の出の勢いで発展していた日本の留学生に恋愛問題の多いのは、けだし当然であった〉
(『私の体験成功法』)
静六が一連の出来事についてそう総括しているのを読んで、思わず吹き出しそうになった。
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