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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #13

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永遠の森13

第二章 暗い井戸の底をのぞき込んだ日 (6)

恩師志賀泰山と留学への思い

明治初期の林学教育は松野礀(まつのはざま)が創始し、中村弥六が森林経理学を持ち込み、最初は二人で専門教育に当たっていたわけだが、さすがに限界を感じ、二年ほどするとハインリッヒ・マイエルとオイスタッハグラスマンというお雇い外国人をミュンヘン大学から招聘することとなった。彼らはそれぞれ三年と八年の間、日本に滞在して教鞭を執り、学生たちにも慕われ、日本の林学に大きな足跡を残している。
だがまだ教授陣は不足している。予算的にも、高額の報酬を必要とするお雇い外国人ではなく日本人教員の養成が急務だ。
そこで松野たちはとんでもないことを思いつく。東京山林学校物理学助教授だった志賀泰山に林学に転向するよう求め、そのためのドイツ留学を打診したのだ。
志賀はドイツ語に秀でていたため、農商務省山林局長の武井守正がドイツの森林事情視察から帰国した際、武井が購入してきたドイツ語の文献も読み込んで報告書作成に協力していた。そうしたことが留学推挙につながったのだ。
「国家のために必要だから」
と、志賀は品川弥二郎農商務大輔(後の次官)からも林学への転向を勧められた。
東大総長代理であった濱尾新もまた、志賀の林学転向に賛成の意を表した。濱尾は志賀の兄で農学者だった志賀雷山の教え子であり、志賀が大学南校に入学した際には舎監を務めており、長年の信頼関係で結ばれていた。
周囲からの声に覚悟を決めた志賀は、留学先の選定に入った。
松野はエーベルスワルデ山林学校、中村はアイゼナッハ山林学校とミュンヘン大学で学んでいたが、志賀は独自に収集した情報を元に留学先をターラント山林学校に決めた。校長のフリードリヒ・ユーダイヒという人物に惚れ込んだからである。

志賀と一緒に、松本収という東京山林学校の化学担当助教授も一緒にターラント山林学校に留学することに決まった。
彼らのドイツ留学を前に明治一八年(一八八五)一〇月七日に送別会が催され、学生たちを前に志賀は林政と林学への思いを熱く語った。それを聞いた静六は我がことのように興奮し、自分も必ず留学しようと心に決めた。
留学に際し士気を鼓舞するべく、志賀・松本両名に贈るために撮影された東京山林学校全生徒と教授陣の集合写真が今に残されており、東京大学農学部HPにも掲載されている。
志賀のドイツ留学中、農商務大輔から駐ドイツ公使に転任していた品川は、機会あるごとに志賀を伴って森林経営の現場を視察した。濱尾も欧州視察の際にターラント山林学校のユーダイヒ校長と面会。隣接する演習林を見学し、学術的な実地演習と同時に林業収益も上げられるという説明に驚きの声を上げた。
政府や教育関係者の間に、こうして林学への理解が広がっていったのである。
静六にとって東京山林学校の一番の恩師がこの志賀であった。
後に静六がドイツ留学をする際、志賀がルートを開拓してくれたおかげでスムーズに受け入れてもらえたし、帝大教授として大学演習林設置と取り組んだ際は帝国大学総長となっていた濱尾の応援を得ることもできた。静六はこうした先人の恩恵を大いに享受していくのである。
志賀は帰国後、大変厳しい教授として学生から恐れられたことが森鴎外の『独逸日記』からうかがえる。彼は木材防腐加工の分野で成果を上げ、その技術は電信柱や枕木に応用された。一方の松本収は東京大林署長、林務官、御料林職員を務めているが、さしたる功績を残さず、その後のことはほとんど文献に残っていない。
留学したからと言って、ただちに成功を収めることができるほど甘くはない。日本の林学界は、静六たち新しい世代の台頭を待ち望んでいたのである。

ある日、東京農林学校の掲示板に〝品行方正学術優秀にして頭角を現すものは官費海外留学を命ずる〟という掲示が出た。
静六は大喜びである。早速これを励みに勉学にいそしみはじめた。ところが、である。まもなく学校の規則が改正され、官費留学制度が撤廃されてしまったのだ。財政難が背景にあったと思われる。
意気消沈したが、あきらめきれない。
そこで河合に、
「なんとかして二人で一万円の金をこしらえ、自費留学しようじゃないか」
と話を持ちかけた。
「それは賛成だが、一万円作るあてがあるのか?」
静六は自信を持ってこう答えた。
「あるとも。内々ある本屋に当たってみたところ、和英辞典の原稿ができれば、原稿料一万円は出すと言うことだ。それを作って半分の五〇〇〇円ずつで洋行するというわけさ」
校長の前田兄弟が若い頃、留学資金を稼ぐべく英和辞書を編纂した向こうをはって、自分たちは和英辞書で同様のことをやってやろうというわけだ。
河合も乗り気になったが、作業に取りかかるにしても先立つものが必要だ。
ヘボンの『和英語林集成』の古本一冊(ヘボン式ローマ字で有名なヘボンが編纂した日本最初の和英辞書、おそらく見出し語二万強の第二版を指すと思われる)と原稿用紙一〇〇〇枚を買えば六円五〇銭は必要となる。
二人は超貧乏だから捻出のあてがない。ここで静六は再び策を巡らす。先日の出会いを奇貨として、愛知社の水野理事から借金しようと考えたのだ。
河合とともに水野邸を訪問し、静六は一場の演説をぶった。水野は黙って聞いていたが、果たして資金提供に応じてくれた。大成功だ。
ここまではトントン拍子だったのだが、妙なことで計画は暗礁に乗り上げる。それは〝船のアカ〟という言葉にぶつかったときのことであった。
二人とも船など乗ったことがないので全くわからない。あああでもないこうでもないと言っているうち、静六がぽろっと、
「ラテン語のAquaがオランダ語として日本に伝わって日本語になったのではないか」
と口にしたことが、語学の達人である河合の自尊心に触れたのだ。
「生意気いうな!語学では君に負けないつもりだ。そもそも訳文ができずに不完全なものを作るくらいなら、やめたほうがましだ!」
予期しない方向に話が行ってしまった。
へそを曲げた河合の機嫌は容易には直らない。ついにこの計画は一旦中止することとなった。推測するに、これまで静六に振り回され続けてきた河合に相当ストレスがたまっていたのだろう。静六は人一倍パワフルだから、ついて行ける人間はそう多くはないのである。
そのうち静六は後述する養子話のおかげで留学の見込みがつき、河合は少し遅れたものの、東京帝国大学農学部助教授時代に留学することができた。
時間が経つにつれ、二人は辞書のことも水野に借りた六円五〇銭の金のこともすっかり忘れてしまった。厚さ一・五センチばかりの原稿は、あちらこちら回り回って空襲で焼けるまで大日本山林会の図書室に残っていたという。
その後、静六は三度ほど宴会などで水野と顔を合わせる機会があった。
六円五〇銭のことを思い出して借金の返済を申し出ると、
「あれは愛知社の金だし、もう時効だから」
と一笑されそのままになってしまったという。

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