【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #60
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【安田善次郎翁】
第五章 人生即努力、努力即幸福 (6)
勤倹貯蓄の大先輩・安田善次郎
大正一〇年(一九二一)の初秋のこと、静六は安田銀行創設者の安田善次郎を大磯の別邸寿楽庵(じゅらくあん)に訪ねた。
彼にとって安田は憧れの人だ。〝ケチの安田〟と呼ばれるほどの勤倹貯蓄の権化。静六の四分の一天引き貯金も、安田の五分の一天引き貯金を参考にした可能性が高いのではないかということについてはすでに触れた。
この時の訪問の趣旨は、安田邸の庭園を一般に開放してほしいと依頼することであった。
この当時、社会における貧富の格差が広がり、米の値段が急騰するなどして三年前に米騒動が起こっていた。民衆の怒りの矛先は富めるものに向かっていたのである。
何か自分にできることはないかと考えた静六は、日本庭園協会会長であることもあり、富豪の大庭園を一般市民に開放する運動を始めていた。
安田は静六と挨拶を交わすなり、こんな思い出話を始めた。
「本多さんとは今から一三年前、私が石黒忠悳、大倉喜八郎両君と新潟へ行く汽車の中でご一緒になり、石黒さんのご紹介ですっかり意気投合し、車中いろいろ有益なお話を伺いましたね。その時の話で自分も山林経営をやってみたいと思い、お目にかかりたいと考えながらついに機会がなかった。今日突然おいでの報せがあったのでお待ちしておりました」
八二歳になる老人が、一三年前の旅行のことを詳細に記憶しているのに度肝を抜かれたが、静六は気を取り直して来訪の趣旨を述べ始めた。
「私は先頃大磯町から大磯の発展策を考えるよう依頼を受けて実地調査をしましたが、大磯の景勝地はことごとく三井三菱その他大富豪の別荘地となっております。観光客も海岸を歩くだけでは飽きてしまうでしょうから、富豪の別荘で平常使用しない部分を開放していただきたいのです。もちろん来客にお使いになる日には締め切ることにしていただいて結構です。必ずや大磯の発展に資すものと確信いたしております」
「至極同感です」
安田は即答した。会ってすぐ、訪問の趣旨は成就してしまったのだ。
彼はすでに静六と同じことを考えており、かねてから庭を市民に開放するべく準備を始めていた。静六の申し出は、わが意を得たりというところだったのだ。
早速、庭を案内してくれた。
安田の別荘は広大で、王城山と呼ばれる裏山までが敷地になっている。
西国三十三所の札所にちなんだ石仏を作り、札所巡りができるようにしようと考えた安田は、得意の絵筆をとって自ら下絵を書き、すでに一番札所にあたる那智観音の石像は完成していた。年に二つずつ作って番外札所をあわせ三十六体の石仏を並べていく計画であった。一体いくつまで生きるつもりだったのか。
「ちょうど建物のところに仕切りの垣根がございますから、ここから山にかけての全部を開放して、来客のある場合には臨時締め切りにする方法が良かろうと思います」
安田は静六の言葉に深くうなずいた。
そして帰り際、静六を門のところまで送ってくれ、こう言ったのだ。
「人間が死ぬ時に金を背負っていくことはできないことは自分もよく承知しています。いずれ日を改めてご相談にまかり出ますからよろしくお願いします」
銀行王が金の使い途を相談したいと言ってくれたのだ。静六は舞い上がってしまうほどに感激した。その感激ぶりは『私の財産告白』の中の〈私もそれを聞いて、かつは驚き、かつは喜び、お互いに手を取り合って感激の涙の中に別れたのである〉という言葉からも伝わってくる。
ところがなんという運命のいたずらか、静六の訪問から半月も経たないうちに安田は朝日平吾という政治活動家の手によって暗殺されてしまうのである。富める者の代表である安田が血祭りにされたのだ。
大正一〇年(一九二一)九月二八日の朝のことであった。
勤倹貯蓄の伝説の男は、その後継者に静六を指名して世を去っていったのかもしれない。彼の死後、彼の遺産で静六の仕事を顕彰するかのように、日比谷公園に日比谷公会堂が建ち、東京帝国大学に安田講堂が建ったのも何かの縁だろう。
静六は安田の死について、こう記して怒りをあらわにしている。
〈私はこの報を知って、思わず飛び上がった。そうして、なんたることをする奴だと、朝日某の暴挙を心からにくんだ。いまさら、その際の善次郎翁の大志を披露しても詮ないことである。老人には老人相応の夢がある。一代の商傑には、一代の商傑でしかたくらみ得ない大きな野望がある。 世間というものは、どうしてこう出しゃばりやおせっかいばかりが多く、何故これを静かに見守って、心行くまで、その夢を実現させてやれないのだ〉(『私の財産告白』)
安田に資金協力をしてもらって東京市の都市計画を進めていこうとしていた、当時東京市長だった後藤新平もまた大きな衝撃を受けたうちの一人だった。
新聞の号外によって訃報を知った瞬間、後藤が、
「しまった!」
と叫んだことを助役が証言している。
死の直前、安田は後藤に宛てて手紙を出しているが、その手紙が彼の絶筆となった。
「惜しい男を死なせてしまった。国家社会のために金を使うことを一生の念願としていた安田さんに、存分に金を使わせてみたかった」
後藤はそう言って天を仰ぎ、安田の死の二年後、関東大震災が起こる五ヵ月前に市長の椅子を下りた。
この時、
「死せる安田氏、後藤市長を罷(や)めさす」
という言葉が流布したという。
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