【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #39
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【荒廃していた奥多摩の山々】
第四章 緑の力で国を支える (9)
東京の水道事業と奥多摩水源林(前編)
東京の水道の歴史は江戸時代にさかのぼり、〝上水の水で産湯をつかい〟というのが江戸っ子の決まり文句だった。当然のことながら現在のように鋳鉄管で給水されていたはずもなく、〝上水〟とは玉川上水のような人工的な水路のことであり、江戸市内に入ったところで一部木管が使われた。
しかもそれは、明治に入ってもしばらくは江戸時代の設備のままだったのである。
やがて多摩川の水を淀橋浄水場へ導いて沈でん、ろ過を行い、有圧鉄管により市内に給水する形で、明治三一年(一八九八)一二月、まずは神田、日本橋区に上水道が開設され、翌年には全市で通水が開始された。
以降、昭和四〇年代に利根川水系からの導水を実現するまで、東京の水道水は多摩川、相模川水系に依存していた。利根川水系と違い、こちらの水は豊富ではない。そのためしばしば深刻な水不足に襲われた。
濁水も頻繁に発生し、みょうばんを用いて水質改善を試みたが、多額の費用が発生する。給水設備の老朽化もあって頻繁にコレラが流行。近代的な水道整備の必要に迫られていた。
ここで水源林活用による水不足解決案を提言したのが静六であった。
明治三〇年(一八九七)秋頃から、静六は奥多摩の山岳地帯に分け入り、森林の調査を行っていた。健脚自慢だけに山道は一向平気である。
多摩川上流は江戸時代、幕府直轄の〝お止め山〟(周辺住民の立ち入りを禁じた)として入念に管理されていたが、明治初年から森林法が公布された明治三〇年頃までの間に、入会権を主張する付近住民の行き過ぎた伐採によってはげ山が増え、焼畑などの影響もあって山がすっかり荒廃していた。
とりわけ最奥部の山梨県一ノ瀬高橋や丹波山村、日原川(にっぱらがわ)流域などは顕著で、このままでは保水力は完全に失われると懸念された。そうなると水源が涸渇し、米作にも影響を与え、山崩れや洪水の危険性がある。
土倉庄三郎から水源林についての示唆はもらっていたが、実際に水源林を造林した経験はない。だが自分がこの国の造林学の第一人者なのだ。ほかの人間に任せるわけにはいかない。
「水源林の造林を私に任せてはもらえませんか」
彼は初代東京市長の松田秀雄に自ら申し入れた。
だが財政的に余裕がないため前向きな返事がもらえない。そこで今度は千家尊福(せんげたかとみ)東京府知事に面会し、放置すれば将来大きな禍根を残すと訴えた。
静六の熱い訴えに心動かされた千家府知事は対応を約束してくれ、明治三二年(一八九九)、静六に東京府森林調査嘱託の辞令がおりた。
〝調査〟で終わらせるつもりはない。静六は早速動いた。
まず取りかかったのは、日原川流域の民有林約五〇〇〇町歩を乱伐防止のため保安林とすること。
日原川は東京府の最高峰である雲取山(くもとりやま)(二〇一七メートル)から西多摩を流れる渓流である。雲取山は東京と埼玉と山梨の境界にあり、日原川流域には山梨県側も含まれている。
だが県境をまたぐということ以外に、もっと大きな問題がたちはだかっていた。水源林予定地の大部分を宮内省管轄の皇室財産である御料林が占めていたのだ。
当時の宮内省は今の宮内庁とは桁外れの権威である。それだけで立ちすくんでしまう人間がほとんどだったはずだが、静六は違った。
御料林であるのはもっけの幸いと、水源林に整備する事業を宮内省にやってもらおうと画策したのだ。確かに水道整備は皇居にも影響を与える。静六らしい作戦だ。
こうして明治三四年(一九〇一)、多摩川上流の御料林一四、七五〇町歩に対し、造林その他の保護事業を行うよう宮内省御料局に申し出ることとなった。
交渉役として立ったのは、驚くべきことに静六本人だった。
調査を担当している学者が政府との交渉まで任されるなどという話は聞いたことがない。責任感の強い静六のことだ。その役目を自ら買って出たのかもしれない。
彼は府知事の代理として、御料局長官の岩村通俊に面会を求めた。数年前まで農商務大臣を務めていた大物政治家だ。
岩村は黙って静六の話を聞いていたが、おもむろに口を開くとこう言った。
「水源林の重要性についてはよくわかった。だが政府も財政難だ。森林の管理などとてもできない。そこでどうだろう。破格の値段で御料林を譲渡するから、そちらでやってみては」
虫のいい話だが、ここで引き下がるわけにはいかない。東京府全域の住民の飲み水がかかっている。帰って千家府知事と相談し、参事会にもはかって御料局の意見をのむことにした。
こうして東京府は、一町歩あたり一〇銭という破格の値段で御料林を譲り受け、森林経営をはじめることになった。
ところが岩村側で問題が発覚する。
当時の土地台帳はいい加減で、実際の森林面積は台帳の数倍から十倍の面積であることがわかったのだ。〝破格の値段〟で譲渡するとは言ったが、これではあまりに安すぎる。
あわてて岩村は静六を呼び出し、ばつが悪そうにこう依頼してきた。
「どうやら台帳面積が大幅に違っていたらしいのだ。売却は実測面積にしてくれんか」
「あなたは私にはっきりと台帳面積でよいと言われたではないですか」
「確かにそうだが、部下がそれでは困るというので…」
これを聞いた静六は目をむいて怒った。
「いやしくも長官と府知事代理との間で一度約束したものを、今更変更することなどできません。あなたの言葉を信じて府知事に復命し、府の参事会にもはかったのです。今更それができないと言われては、私は切腹するよりほかにありません。あなたは私に詰め腹を切れとおっしゃるつもりですか?」
岩村は元土佐藩の重臣の家柄で、人一倍プライドは高い。みるみる真っ赤になっていった。
しばらく口をへの字に結んで思案していたが、やがて立ち上がると、ばしんと机をたたき、
「よくわかった。昨日の通りでやろう!」
と言うと、少しあきれたような笑顔を浮かべた。
土佐のいごっそうを相手にして、一歩も引かない学者がいることが愉快だったからである。
岩村は約束通り契約書に印を押してくれた。(『明治林業逸史 続編』大日本山林会編)
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