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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #27

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永遠の森27

【早稲田大学の前身東京専門学校のまわりの風景】

第三章 飛躍のドイツ留学 (11)
早稲田大学と実業之日本社・増田義一

静六は帝国大学の講義だけでも大変であったにもかかわらず、大隈重信の依頼により、東京専門学校課外(科外)授業の講師を引き受けている。
明治十四年の政変で下野した大隈がその翌年に設立したこの学校は、いの一番に政治経済学部を設けたこともあって反政府勢力の養成機関と見なされ、ことあるごとに政府からの圧力を受けていた。明治三十五年(一九〇二)に早稲田大学と改称するが、大学令によって正式な大学として認可されるのは実に大正九年(一九二〇)を待たねばならなかった。
一時は判事、検事、大学教授(すなわち帝国大学教授)に出講禁止が通達されたこともある。そんな学校の講師を引き受ければ、政府からにらまれることに思い至らないはずもない。
しかし彼は受けた。政府が学問の府に圧力をかけることなど論外。早稲田の掲げた〝学の独立〟は静六の中でも絶対の信念であったからだ。以降彼は〝変わった奴だ〟と帝国大学の教授仲間から冷たい目で見られることになる。
少し離れたところから、そんな静六のことを好ましく見守っていたのが渋沢栄一だった。実は彼も東京専門学校を設立以来応援し続けていた。役人の時代から大隈とはしばしば対立することもあったが、批判者を受け入れようとしない政府の傲慢さのほうがはるかに大きな社会の害毒だという確信があったからだ。

こうして静六は明治二十七年(一八九四)から、毎土曜日の午後、林政経済学の講義を二時間受け持つこととなった。
駒場の官舎から三里(約十二キロ)あまりの道のりを徒歩で早稲田に通うのだが、雨天のときなどは大変だ。
当時の渋谷は一面に水田が広がっていたが、盆地状になっていることから雨が降るとすぐにぬかるんでしまう。早稲田周辺も同様に田んぼ道であり、東京専門学校の講堂(大隈講堂はまだない)にたどりつく頃には下半身は泥だらけ、上半身は汗びっしょりという姿になっていた。
人力車に乗ればいいのだが、頑なに歩くことに固執した。それが健康への近道だと信じていたからだ。このあたりの頑固さは比類がない。
そこまで苦労しても、早稲田での講義をやめなかった。大隈の人柄に心酔していたこともあったが、課外授業ということで実験的な講義ができると考えたからだ。時事問題を加味し、学生のみならず世間全般に対して発信することも意図していた。
講師をはじめてすぐ、校内報である『中央時論』(後の『早稲田学報』)明治二十七年三月号(実際の発刊は六月)に次のような記事が掲載されている。

〈農科大学助教授・林学士・ドクトル・エコノミー・プブリーク本多静六氏を聘(へい)し、五月十九日より引き続き毎土曜日の午後一時より科外講義を聞く。演題は「帝国林政革新私議」にて、大に我国森林制度の不可なるを痛憤し、その革新を論ぜられ、頗(すこぶ)る有価の講話なり〉

最近ならいざ知らず、当時の帝国大学で〝我国森林制度の不可なるを痛憤し、その革新を論ぜられ〟などという政府批判とも取られる講義ができたとは思えない。東京専門学校に在野精神や批判精神が横溢していることを意識し、それを積極的に活用しようと考えていたのだろう。

静六がこれだけ熱い思いを込めて講義に臨んでいたにもかかわらず、早稲田の学生に教えるのには別の難しさがあった。彼らは権威に媚びない。つまり帝国大学の学生と違い、おとなしく聴講してくれないのだ。
静六に対して頭を下げないのみならず、講義中に手を叩いたり野次を飛ばすことさえある。講義が面白くないと思うと途中で出て行ってしまうのだが、彼らは朴歯(ほおば)の高下駄をはいているのでうるさくて仕方ない。
帝国大学の講義では学生はせきひとつせず熱心に講義を聴き、静かな教室ではノートを取るペンの走る音だけが聞こえていた。学校によってこうも違うものかと唖然とした。
貴重な話を聞かなければ学生が損をするだけだと放置することもできる。だが、静六は次世代に対する思いがことさら強い。なんとかして彼らに思いを伝えようとした。
まずは講義内容の充実である。講義の前日には午前一時頃まで原稿作りに取り組み、時には徹夜することさえあった。
だが講義内容をよくするだけでは学生はついてこない。ここからが彼らしいのだが、なんと講談界の第一人者である真竜斎貞水(さいていすい)の指導を受け、講義の話し方に講談調をとり入れたのだ。
これは効いた。

〈私がのちに〝講談もどきの本多さん〞と学生たちにアダ名されるようになったのは、まったく早稲田のお陰(?)であった〉(本多静六著「五十年前の増田義一君と私」『増田義一追懐録』)。

苦労の甲斐あって、静六の講義を熱心に聞いてくれる学生がいた。そのうちの一人が増田義一である。静六のわずか三歳下だからほとんど同世代なのだが、静六を尊敬して師の礼をとり、成績は常にトップクラスであった。

増田は苦学生だった。
明治二年(一八六九)、新潟に生まれた彼は、小学校高等科を卒業後、すぐに小学校の代用教員となっている。静六よりも勉強のできたあの関根文吉と同じだ。
明治二十二年(一八八九)には教員を辞して改進党系の高田新聞社に入社。政治記者として活動していたが、翌二十三年、大隈を尊敬していたこともあって東京専門学校に入学。最優等で卒業し、そのまま同校研究科(今でいう大学院)に進学して財政学を専攻した。
静六は増田を高等官待遇の林務官に推薦していた。実際には政治の混乱で実現しなかったが、増田は静六の好意を多とした。
結局、明治二十八年(一八九五)に読売新聞社へ入社。経済部記者として渋沢栄一や大倉喜八郎などの財界人の知遇も得たが、ここから彼はベンチャー企業への転職の道を探りはじめる。東京専門学校の同級生だった光岡威一郎(いいちろう)が設立した大日本実業学会(実業之日本社の前身)に参画したのだ。
大隈と同じ佐賀出身の光岡は、増田同様、静六の講義を熱心に聞いてくれていた学生の一人であった。一旦は東京専門学校の助手となったが、日清戦争勝利の高揚感もあり、独立して明治二十八年五月、大日本実業学会を立ち上げ、貧しさ故に高等教育を受けられない若者のために大学の講義録(『実業講義録』)を出版する事業をはじめた。 
最初は「農科」「商科」、さらに「高等農科」「高等商科」の講義録を発行。また「参考科」として月一回時事問題に関する名士の講演を掲載し、会員に配布した。
そして明治三十〇年(一八九七)六月十日に『実業之日本』を創刊すると、急速な経済発展が追い風となって購読の申し込みが殺到する。
一方、増田は明治三十年に大日本実業学会から『金貨本位之日本』という金本位制を採用するべきだという内容の名著を世に出しており、阪谷芳郎大蔵省主計局長(後の大蔵大臣)などが推薦文を書いている。
ところが好事魔多し。
明治三十三年(一九〇〇)の春に光岡が結核に罹患。同年九月に病没してしまうのだ。
覚悟を決めて三月に読売新聞社を退職していた増田は『実業之日本』の発行と経営権を引継ぎ、大日本実業学会を実業之日本社に改組。初代社長に就任する。実業之日本社が『実業之日本』創刊の日を創立記念日としているのは、光岡の初志に敬意を表してのことであろう。
静六は大日本実業学会の時代から光岡と増田を応援し、『実業講義録』では農林科の講義録を担当するなどして、設立間もない同社の経営を陰ながら支えた。実業之日本社が今も本多静六の出版物を再刊するなどして顕彰に力を入れているのは、この美しい師弟関係がその出発点なのである。

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