【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #29
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前回までのあらすじ
豊田正作によって桜町仕法が妨害工作に遭い、辞任を申し出るも受理されず、進退窮まった金次郎は出奔。成田山に参籠する。金次郎を失って改めてその存在の大きさに気づいた領民と藩庁は豊田を離任させ、再び金次郎に仕法の継続を委ねることとなった。
第二九回 徳をもって徳に報いる
金次郎は、成田から帰ってきた翌日から回村を始めた。
不動尊の御真言は「祈るところ必ず霊験あり」というものだ。
迷いを払拭してもらったことへの感謝の気持ちを忘れず、床の間に不動尊の軸を掛け、毎朝これに向かって手を合わせた。彼は別に、同じ不動尊の軸を一四本買って帰っており、危険も顧みず直訴してくれた一四名の村民に感謝の印として贈った。
帰任後も抵抗がゼロになったわけではない。ある時、大正院(現在は廃寺)の過去帳に次のような落首が書かれていた。
しばらくして、物井村の平左衛門という者が自首してきた。
豊田の裁きが不公正であったとして、復帰後、金次郎は賭博の罪で手鎖の処分にされていた者たちを赦免したのだが、彼らを訴えた本人である平左衛門は金次郎の処分に納得がいかず、かかる行動に出たのだ。
金次郎は敢えて彼を罰しなかった。
幸いにもその後、平左衛門のような仕法反対派に同調するものは出なかった。雨降って地固まる。成田山参籠は、まるで計算されていたかのようにその後の仕法の進展に好影響を与え始める。金次郎の不在で彼の偉大さを領民が痛感したことに加え、豊田が交代したことが大きかった。
四月には三ヵ村の名主と組頭全員がこれまでの怠慢を詫び、村役人は陣屋の長屋につめて懸命に励む旨を誓った。
文政一三(一八三〇)年正月、金次郎は妻子と少数の近習を連れ、久々に栢山へと帰郷した。
金次郎の活躍は当然聞こえてきている。村人たちは盛大に歓迎してくれた。
同年(文政一三年=天保元年)八月一七日の日記に金次郎は、「一円仁御法(にみのり)正しき月夜かな」という句を詠んでいる。「一円」「仁」「満月」が一円相(観)を象徴し、「御法」は稲の実りの掛詞となっている。
また、この頃の日記には「夜天地和合遊ばされ候」という表現が頻出するが、これは波との夜の営みによって、万物が天地の和合から生じることを実感していたのだとする説もある(『二宮尊徳』大藤修著)
金次郎が成田不動尊で断食行を行っている間、波が「立ち行」をしていたことについてはすでに触れた。夫婦の絆はさらに深まっていたのだ。
この頃の金次郎が、心身ともに充実していたことがうかがえる。
天保二(一八三一)年、桜町領の仕法は最初の満期を迎えた。世に言う第一期桜町仕法の完了である。その功をねぎらうかのように、同年、藩主大久保忠真は日光東照宮参詣の帰路、結城(ゆうき)宿(現在の茨城県結城市)に宿泊し、金次郎に面会している。
この時、忠真は金次郎に、
「そなたの仕法は、論語にある『以徳報徳』である。徳の力で仕法を成功に導いたのだ」
と言って激賞した。
金次郎はこの〝以徳報徳〟という言葉に感激し、『報徳訓』という訓示を残している。一三句ずつ四連で計一二句。一句は九文字なので、すべてで煩悩の数と同じ一〇八字になる。
少々長文であるが、有名なものでもあり、ここに掲げておきたい。
その後、報徳という言葉は二宮尊徳の思想や行動を象徴する言葉となり、現在の「報徳社」や「報徳学園」はその精神を今に伝えている。
藩主直々にここまで言われたらやる気も出る。忠真から是非桜町仕法を続けて欲しいという依頼があり、あと五年続けることとなった。
いわゆる第二次桜町仕法の始まりである。
天保二(一八三一)年一一月には親類縁者を集め、善栄寺で祖父銀右衛門の五〇回忌法要を営んでいる。この頃には、まさか小田原への帰郷が許されなくなる日が来るなどとは思ってもいなかった。
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。
次回は10月25日更新予定です。