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【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #02

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第二回 ねじ曲げられた真実

明治維新後、彼の評価は一転する。
富国強兵殖産興業の大号令がかかったこともあって、急にもてはやされ始めたのだ。
農商務大臣の井上(いのうえ)馨(かおる)は、何かというと二宮尊徳を引き合いに出して持ち上げた。盟友だった渋沢栄一が尊徳のことをことのほか尊敬していたからである。修身の教科書にも登場するようになり、全国に彼の銅像が建てられ、多くの人々からの崇敬を集めた。
渋沢栄一のみならず、安田善次郎(みずほ銀行の祖)、伊庭貞剛(住友グループの祖)、豊田佐吉(トヨタの祖)、荘田平五郎(三菱地所の祖)、御木本幸吉(ミキモトの祖)、最近だと松下幸之助や土光敏夫、稲盛和夫といった錚々たる経営者が、報徳思想を自らの生きる指針としたのである。
ところが今、どうしたわけか彼は時代の流れの中で忘れられつつある。その一例が〝歩きスマホ〟を誘発するとして、全国の小学校から撤去されている二宮金次郎の銅像だ。
だが、これは大きな誤解である。
二宮金次郎は歩きながら本を読んでいたわけではない。そのことは最初の本格的伝記ともいえる『報徳記』にはっきり書いてある。彼は書物を懐中にしのばせ、歩きながら暗唱していたのだ。
つかえたときには取り出して見たろうが、ずっと歩きながら読んでいたわけではない。現代の舗装された歩道ならまだしも、あちこちに木の根や岩の角が突き出ている山道を、本を読みながら歩くことなどできようはずもない。
ちなみに『報徳記』には四書五経の一つである『大学』を懐中にしていたと書かれているが、もし仮にそうであったとしても、それはいわゆる素読(そどく)であって意味はさしてわかっていなかったはずだ。体系的に学問を積んでいたわけではない当時の彼の学力が高かったはずはない。それは後年の書籍購入リストを見てもわかる。だが向上心と勉学に対する意欲が人一倍強かった。

小田原の報徳二宮神社内にある二宮金次郎像(著者撮影)

ついでに言えば、二宮金次郎が背負っているものは入会地(いりあいち)で取ってきた柴(しば)とされる。薪(たきぎ)は子どもには重すぎるからだ。
金次郎像は確かに勤勉の象徴であったが、それだけではなかった。生きた教材だったのだ。あの像はちょうど一メートルにできている。尺貫法しか知らない子どもたちに一メートルを体感させるため全国に普及していったのだ(わが国でメートル法が正式に採用されたのは昭和三四〈一九五九〉年である)。
冒頭、武者小路実篤の言葉を掲げたが、二宮尊徳のことを知らないのは日本人として恥ずかしいことだ。近年、この二宮金次郎像を使って彼の偉業を伝えることのできない学校の先生が増えたことこそが問題なのだ。

幸田露伴著『二宮尊徳翁』少年文学第七編(国文学研究資料館 近代書誌・近代画像データベース)

〝歩きスマホ〟の件もそうだが、果たして我々は二宮尊徳についてどれだけのことを知っているだろう?
名前にしても、彼の名前は本来〝二宮金治郎〟なのだ。小田原藩に士分として抱えられた際、公文書に〝金次郎〟が用いられていたことから、彼もこの字を主に用いるようになった。本書でもあえて一般に流布されている金次郎としたい。
容貌に関しては諸説ある。そもそも生前の尊徳は自分の肖像を描かれるのを極度に嫌い、生前描かれた肖像には必ずと言っていいほどふすまの隙間からひそかに写し取ったというエピソードが加えられている。
一般には岡本秋暉(おかもとしゅうき)が描き残した「尊徳坐像」(小田原市 報徳二宮神社所蔵)のイメージが強い。髭(ひげ)濃く鼻高く目に力のある知的な容貌でやや顔は面長。裃(かみしも)を着用し帯刀した完全な武士の装いである。
だが峻厳な印象を抱く岡本の絵とは裏腹に、後世の証言や大日本報徳社の尊徳肖像などでは、彼の顔はむしろ丸顔で耳たぶの大きい福相だったとするものも多い。一円札の肖像の方がまだ近いだろう。
なお身長に関しては、六尺(約一八〇センチ強)を超え、筋骨隆々とした当時としては例外的な巨漢であったとする伝承もあるが、報徳二宮神社に残されている羽織の丈は一三〇センチであり、今市報徳二宮神社に残されている袴の長さは八三センチである。これらから身長を類推すると、当時の男性の平均身長である一五五センチほどではなかったかと思われる。

彼は情の人と考えられがちだが、すこぶるつきの合理主義者だった。
たとえば彼は少年期の一時期を除き、ほとんど自分で耕作をしていない。田は所有してもみな小作に出し、自分は奉公に出た。そのほうが現金収入になるからだ。そして手元の資金は必ず運用し、無為にため込んでおくことはしなかった。
慈善家とも言いきれない。もちろん生死の境を彷徨(さまよ)っている者には惜しみなく与えたが、怠ける者は容赦なく罰した。怠けないよう冬でも裸で外の作業をさせたほどだ。
何より彼の真骨頂は、お金を生かして使うことにあった。
たとえば弟が生活に困っていると窮状を訴えてきてお金を渡す際も、その金で服や食べ物を買えとは言わなかった。山を買い、そこから採れる薪で生活していくようにとの指示を与えたのだ。現代的に言えば、継続可能性(サステナビリティ)に力点を置いた指導である。
報徳金と呼ばれる彼がプールした資金は、消費するためではなく投資するために使われた。仕法に携わる者は助け合うことで共同体意識を醸成し、士気を高め、道徳心を育んだ。世界初とも言われる、今で言うところの農業協同組合や信用組合にまで発展させ、報徳金はどんどん増えていって各地を復興させていった。
彼は新田開発をしながら〝心田〟開発を行ったのだ。
村が豊かになれば評判は周囲に広まる。彼が対策を任された地域は得てして人口が減少し、休耕田が多かったが、彼の報徳仕法にかかれば見事人口は増加し、人手不足は一気に解消していった。
こうした事業に自身が得た俸禄やほうびもすべてつぎ込んだから、死去したときには私財と言えるものがまったく残っていなかったという。

戦後、そんな二宮尊徳の偉大さに感動した人たちがいた。意外なことに、それは日本に駐留していた占領軍(GHQ)だった。
彼らは戦前の軍部のように勤倹さだけで彼を評価したわけではなかった。共同体意識を高めて財政再建や産業振興を進めていくその合理的な実務家としての能力に瞠目(どうもく)したのだ。皮肉なことに彼らこそ、二宮尊徳の本質を見抜いていたのである。内村鑑三が英文で書いた『代表的日本人』の中に、西郷隆盛や日蓮上人や上杉鷹山(ようざん)や中江藤樹などと共に二宮尊徳が採りあげられていたことがきっかけとなったのかもしれない。
感動した彼らは、二宮尊徳を新円切り換えの際の一円札の肖像画に選んだ。偽造されないため、ひげのある人物が選ばれる傾向があったが、彼はひげのない肖像の第一号である。
彼を紙幣に採用したのが、日本人でなくアメリカ人だというのは寂しい限りだ。国外から客観的な目で見てもらって、初めて彼は正しい評価を得たのかもしれない。
そんな悲劇のヒーローを是非、日本人にもっと知ってもらいたいと思い今回筆を執った。
起業家育成、地方活性化、財政再建、人口政策等、今日我々が抱えている諸問題解決の鍵は、すべてこの人物の中に眠っている。その波乱に満ちた巨人の人生を〝知らないのは日本人として恥だ〟と思って是非玩味(がんみ)していただきたい。

  • 本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。

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