【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #03
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第三回 二宮金〝治〟郎誕生
二宮金次郎は天明七(一七八七)年七月二三日の朝、小田原藩の相模国足柄上郡栢山(かやま)村(現在の神奈川県小田原市栢山)で、父二宮利右衛門、母好(よし)(以下よし)の長男として生まれた。傑物であった祖父銀右衛門を越えるようにと、金治郎と名付けられた(先述した通り、この後は金次郎とする)。
よしの旧姓は川久保。足柄上郡曽我別所村組頭(そがべっしょくみがしら)(名主の補佐役)太兵衛の娘である。利右衛門より一四歳離れており、長男の金次郎を生んだとき、満年齢で二〇歳だった。
当時の女性の名前は基本的に二文字が普通で、漢字で表記する場合は一文字。そして「お」という女性の名前に冠する接頭語をつけて「およし」などと呼ぶのが普通だった。
現代風の光子、有子などというのは、もとは公家の子女の名前の付け方である。明治に入って四民平等になると公家風の○子が流行し、自分の先祖の名前もさかのぼって○子と表記し始めた。本書では当時の名前を用いたい。
江戸時代の庶民は苗字を公称することはなかったが、大きな農家であれば苗字帯刀を許されるまでもなく苗字を持つのが普通だった。
利右衛門の家は豪農であった二宮本家の孫分家で、利右衛門が相続したときには田畑屋敷をあわせて二町(ちょう)三反(たん)六畝(せ)二二歩(ぶ)あった。
今後、この広さの単位が何度も出てくる。一町(丁とも書く)は〇・九九一七ヘクタールで、一町=一〇反=三〇〇〇歩である。東京ドームの広さが約四・七ヘクタールだから、四町七反強になる。つまり、利右衛門が相続したときの二宮家の田畑は東京ドームの約半分だったということになる。
うち一番地味の悪い下々畑の四畝一八歩を、分家してくれた兄万兵衛の屋敷として譲ったので、実質の土地は二町三反二畝四歩という中規模の農家であった。
二宮家の先祖については諸説あるが、日本三大仇討ちの一つとして知られる曽我兄弟の実姉の夫とされる二宮太郎朝忠という鎌倉武士であったと伝わっている。今も神奈川県中郡二宮町二宮という場所があるが、二宮という姓はこの地名に由来するとされる。そして母よしの実家の川久保家は、二宮と栢山のちょうど中間あたりにあった。
栢山村における二宮家の歴史は戦国時代に土着した二宮伊右衛門にはじまる。その後、その直系である二宮総本家から、いくつもの分家が分かれていった。
小田急線で小田原駅から各駅停車で北上すると四つ目に栢山駅があり、今も祖父銀右衛門が建てた金次郎の生家(県指定重要文化財)が、栢山駅から徒歩一〇分ほどの場所に当時のまま移築復元されている。
二宮尊徳の信奉者だった真珠王・御木本幸吉が土地を購入してくれたのだが、場所だけは当時あったところから少し南側に移っている。
このあたりは小田原藩なのだが、当時の小田原藩は疲弊していた。
宝永四(一七〇七)年一一月二日の富士山宝永火口からの大噴火は江戸にまで火山灰を降らしたほどで、地元小田原藩は大量の降灰と頻発する大地震のために作物の収穫は不可能となり、幕府は翌年、小田原藩の大部分を幕府直轄として復興を急ぐことになった。
復興を遂げたところから小田原藩に戻していったが、すべての領地が小田原藩に戻るまでに四〇年を要した。また年貢米の収穫が旧に復するまでには一〇〇年の年月を要した。降灰は河川の川底を浅くしており、その後も小田原藩は河川の氾濫に悩まされる。
加えて飢饉にも見舞われた。
近年地球温暖化が問題となっているが、一四世紀半ばから一九世紀半ばにかけては全世界的に小氷期と呼ばれる時代であり、今の時代と比較すると約一度平均気温が低かった。そのためロンドンを流れるテムズ川が氷結するという現象も見られた。
温暖な縄文時代後期に大陸から伝来した稲作は当時の気温には適していたが、江戸時代を通じて何度も飢饉が発生したのは、この小氷期のためだったのである。中でも一七八〇年代の天明の飢饉と一八三〇年代の天保の飢饉は多くの餓死者を出し酸鼻(さんび)を極めた。
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。
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