【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #04
前回はこちら↓
第四回 暴れ川と飢饉との戦い
金次郎が生まれた天明七年という年は、十一代将軍徳川家斉(いえなり)が就任し、前年に罷免になった田沼意次(たむらおきつぐ)に代わって松平定信(まつひらさだのぶ)が幕政の立て直しに着手している。いわゆる寛政の改革である。幕政が順調なら改革など不要なわけで、度重なる飢饉の前にはなすすべがなかった。金次郎が生きた時代は、幕藩体制が次第に揺らいでいく過程でもあったのだ。
当時は運悪く、全世界的に火山活動も活発になっていた。
天明三(一七八三)年西暦四月一三日には青森の岩木山、西暦八月三日には長野県と群馬県にまたがる浅間山が相次いで噴火を起こし、特に後者は二〇〇〇名もの死者を出す大惨事となった。ヨーロッパでも同年六月八日、アイスランド南部のラキ火山が大爆発を起こし、イギリスでまで火山灰が降っている。
これらの激しい火山活動によって噴出した大量の火山灰は成層圏にまで達し、上空の偏西風にのって北半球を覆い、数年にわたって全世界的な気温低下と凶作をもたらした。
寛政元(一七八九)年、金次郎が満二歳の時、ルイ一六世治世のフランスでも飢饉が起き、王妃マリーアントワネットが有名な、
「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」
という言葉を発したのはこの時のことだ。
怒る民衆によって王政が廃止されてフランス革命が引き起こされたのも、こうした火山活動がその遠因と言えるだろう。
天明の大飢饉の被害は、蝦夷地(えぞち)と呼ばれた北海道の統計はなかったものの、一七八二年から一七八七年の期間に九六万人の餓死者が出たと言われている。特に寒冷な東北地方の被害は大きかった。
一七五〇年時点でのわが国の人口は研究者によって二六〇〇万人から三一○○万人と幅があるが、どの研究でも天明の飢饉によって一〇〇万人前後の人口減があったと推定しており、元の人口に戻るのに七〇年近くを要している。
金次郎が四八歳の時には天保の大飢饉も起こっており、彼の人生は相次ぐ飢饉との戦いであり、打ちひしがれた人々に勇気と希望を指し示すものだったと言えるだろう。
金次郎の故郷である栢山は現在の神奈川県西部の足柄平野の真ん中あたりに位置している。西は箱根の外輪山、北には丹沢山系を望む。
故郷の山川は懐かしいものだが、彼にとって山と言えば、なんと言っても村のどこからでも遠望できる日本一の山、富士山であり、川と言えば、丹沢山地に源流を持ち栢山村の東端を流れて相模湾に注ぐ酒匂(さかわ)川であった。
そのほか村の真ん中を酒匂川の支流である仙了(せんりょう)川が、西端に箱根を源流とする要定(ようさだ)川が流れており、農業用水には事欠かなかった。ちなみに仙了川を境に栢山村は同じ村でも西栢山と東栢山に分れ、それぞれに名主をおいていた。二宮家は東栢山にあたる。
温暖で風光明媚な場所ではあったが、自然の脅威は例外なく人々に戦うことを強いた。普段は美味しい鮎などの恵みをもたらす酒匂川はとんでもない暴れ川だったのである。先述した宝永の大噴火の降灰により、川底が浅くなってしまった結果だった。
噴火の影響は長く続いた。小田原藩の知行高は一一万三〇〇〇石であったが、実際の収穫は名目を大きく下回っていた。
人々は懸命に堤を築いたものの、台風の時期になるとそうした人間の努力をあざ笑うかのように頻繁に洪水の被害をもたらす。
そのことが二宮家の未来にも、暗い影を落とすこととなるのである。
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。
次回はこちら↓