【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #05
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第五回 酒匂川の洪水
金次郎が生まれた頃の二宮家は、二町三反(一町は約一ヘクタール)の田畑を持つ、そこそこ裕福な農家であった。
祖父銀右衛門の兄万兵衛(まんべえ)(当主は代々万兵衛を名乗った)は栢山(かやま)村の組頭を務めるほどのやり手であったが、分家させてもらった弟の銀右衛門も兄同様才覚があり、質素倹約に努め、少しずつ田畑を買い集めて一財産を築いた。
そして生涯結婚しなかった銀右衛門のところに、万兵衛の次男だった金次郎の父利右衛門が養子に入ったというわけだ。
ちなみに銀右衛門は、金次郎が生まれる五年前に逝去している。
後継ぎを絶やさず一家の繁栄を図ろうという、こうした「家社会」の考え方は現代では希薄になりつつあるが、これはその後、形を変えて「会社人間」を生んでいく。
江戸時代は、組織重視である日本人の源流と言っていいだろう。その良さと弱点の両方を知る上でも、少々煩雑に思われるかもしれないが、分家や養子入りの話なども省略することなく記述し、当時の彼らの思いに寄り添っていくこととしたい。
利右衛門は本好きの教養人ではあったが、万兵衛・銀右衛門兄弟のような生活力旺盛なタイプではなく、生まれつき病弱でもあった。
一方で彼を特徴付けたのは、すこぶるお人好しであったということだ。人から頼られると断れない。米や金を無利子で貸し、近所では〝栢山の善人〟と呼ばれていた。そして母よしはがっしりした体格で働き者の女性であった。
金次郎はすぐれた才覚を祖父から、学問好きで慈悲深い性格を父から、健康で頑丈な身体を母から受け継いだと言えるだろう。
寛政二(一七九〇)年、二宮家に金次郎の三歳年下にあたる次男友吉(ともきち)が誕生し、喜びに沸いた。だが平穏な日々は長くは続かない。その翌年(寛政三年)八月五日、今で言う大型台風が相模地方に上陸したのだ。
当時は天気予報などない。いつにない激しい雨が降り続くのを、早くやんでくれと祈るしかなかった。だがこの日の雨は尋常ではなく、酒匂(さかわ)川は見る間に増水。濁流となって堤に押し寄せてきた。
(これはまずい!)
二宮家の菩提寺(ぼだいじ)でもある善栄寺(ぜんえいじ)が早鐘を鳴らし、村人に緊急時であることを知らせると、大人たちは簔笠(みのかさ)をかぶって近くの坂口堤(さかぐちつつみ)に集まった。利右衛門も当然加わっている。
みなで力を合わせて懸命に土嚢(どのう)を積んだが、いくら積んでも増水の勢いには追いつきそうにない。そのうち二キロほど上流の吉田島堤が決壊し、見る間に水があふれ出した。
ことここに及んでは、家族の安全が優先される。おのおの急ぎ家へと戻っていった。
栢山村には小高い場所がなく完全な平地である。利右衛門の足よりも水のほうが早いくらいの勢いで、二宮家のある東栢山一帯にも一気に濁流が押し寄せてきた。
家に残っていた金次郎たちは行き場がない。幸いにも銀右衛門がしっかりした家を建ててくれていたお陰で、倒れる心配はなさそうだ。
「みんな梁(はり)(天井部分に横に渡してある太い木材)に上がるんだ!」
彼らは洪水慣れしている。こういう場合、まずは梁へ上がり、それでもダメなら屋根に上って水の引くのを待つ。金次郎たちは上がってくる水位に怯えながら眠れぬ一夜を過ごした。幸いにも梁の上に水が来ることはなく、なんとか持ちこたえた。
だが水が引いた後の光景は、胸が締め付けられるほど無残なものだった。
一面泥と石で埋まり、田畑は跡形もなくなっている。さすがにしばらくすると数年間年貢は免除するというお達しがあり、みな田畑の復旧に全力を費やした。
利右衛門は土地を担保に入れて借金をした。以前貸した金は返ってこない。二宮家は一気に貧しさの淵へと沈んでいった。
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。
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