見出し画像

【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #24

前回はこちら↓

第二四回 朽ちかけていた桜町陣屋

後年、洪水で再び栢山(かやま)村が荒廃し、人々が困窮した際、金次郎は弟に管理させていた土地を「報徳田地」として寄付している。年貢など諸費用はすべて自分が負担し、困窮する者に小作させ、収穫物はすべてその者たちに与える形にして援助したのだ。 
それを機に、栢山村の土地改良も提案している。
洪水の後、早期に排水して田畑を窮状に戻さねばならないが、それだけでなく、田に給水する水を温かくして稲の生育を促進する方法を考案した。具体的には、幅二間(約三・六メートル)、深さ一間(約一・八メートル)の堀を巡らせて水はけを良くすると同時に、長距離にわたって堀の水を通すことによって、温かくなった水が田に供給されるよう工夫を凝らしたのだ。資金援助もしたのは言うまでもない。
天保一一(一八四〇)年、堀は完成し、地元民は彼の助言に感謝し、この堀を「報徳堀」と呼んだ。今もその顕彰碑が残されている。 

報徳堀顕彰碑(著者撮影)

さて栢山村を発った金次郎たち一行だが、悲壮な決意とは裏腹に、途中で江ノ島や鎌倉などの名所に立ち寄り、今で言う〝観光〟をしながらまずは江戸に向かった。
小田原藩士で桜町の主席役人に就任することが決まっていた勝俣周左衛門(かつまたしゅうざえもん)の奥さんが同行していたこともあろうが、これからは、これまで以上に波に負担をかけるに違いない。彼女の喜ぶ顔が見たかったのだ。
ちなみに勝俣はこの時の発令を受け、小兵衛という名を周左衛門に改めている。藩士にとっても覚悟を必要とする大役だったことがうかがえる。
観光したと言っても駆け足だ。出発した二日後の三月一五日には江戸の麻布にある大久保家中屋敷に到着している。申し送り事項などがあったらしく二五日まで滞在し、翌日江戸を発って二八日、桜町の陣屋に到着した。

陣屋とは、城持ちの資格を持たない大名や旗本の居所を指す。城郭の役目を持つため、しばしば堀に囲まれていた。桜町陣屋も最盛期には一二三棟もの建物があったと言われ、周囲に高さ一・五メートルほどの土塁がめぐらされ、防火用水を兼ねた池や濠も設けられていた。
だが当時の桜町陣屋は宇津家の台所事情を反映し、瓦葺きではなく藁葺き屋根だった。藩庁と言うより庄屋の屋敷のような趣(おもむき)である。三〇畳ほどが五つの部屋に区切られ、政務と生活の場とされていた。
藁葺き屋根は五〇年くらい経つと吹き替えてやらないと腐って雨漏りがひどくなる。波が目にした陣屋は屋根に草が生え、まさにボロボロの姿だった。
そのため金次郎の最初の仕事は、陣屋の修繕になった。

そもそも賢妻である波は気づいていた。
桜町領に入ると、とたんに荒れ地や倒壊した家屋が散見され始めたことを。金次郎はすでに何度もここに通っていたから見慣れた風景になっていたが、初めて目にする彼女にとって、それは大きな衝撃だった。
(これはひどい……)
夫の任された仕事が如何に困難なものであるかを痛感し、気持ちが暗くなったが、彼女は先妻の轍は踏まないと心に決めている。家事と育児の傍ら、赴任の日からはじめた公用日記(金次郎はこれと別に私的日記も付けていた)や出納簿の代筆も行い、夫の外出中は陣屋を訪れる者の応対までした。あっぱれ気丈な女性だった。

桜町に来て一年四ヵ月ほどが過ぎた文政七(一八二四)年七月一七日、長女が誕生する。文(ふみ)(奇峰・松隣)と名付けられ、七夜(しちや)にはお祝いとして陣屋の使用人に酒と赤飯が振る舞われた。
この文は長じて後、頭脳明晰なのは言うに及ばず、書道や絵画を含め多方面に才能を発揮し、金次郎の心強い秘書役に成長していく。一方の弥太郎も父親の後継者にふさわしい才覚を身につけていく。それはまさに、波の日頃の教育の賜物であった。
波の故郷の寺である勝福寺には「二宮尊徳夫人生誕地」という碑が立っているが、そこには彼女の内助の功についてこう記されている。

〈先生野州(やしゅう)櫻町領復興の命を受け、文政六年夏一家を廃して赴くや夫人欣然(きんぜん)としてこれに随(したが)う。以来三〇年来先生興国安民の業に献身し、百家を興し、不朽の大道を立つ。夫人よく内を守り、二児を育て自ら飯杓(めししゃく)を執って随身(すいじん)来訪者数十名に給す〉

  • 本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。

  • 次回はこちら↓