【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #23
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第二三回 一家を廃して万家を興す背水の陣
金次郎の思考は現代的だ。口約束では満足しない。再興事業の期間と数値目標などを記した契約書を作成し、小田原藩と宇津家との間で取り交わした。
最初に決めたのは、桜町領の分度(税収合計)だった。
「年間の年貢を一〇〇五俵、畑方金(畑で獲れる作物への税)一二七両と定め、これを越えた収量があった場合には、分度外として報徳金勘定に組み入れることを認めて頂きたい」
ちなみに一〇〇五俵とは過去一〇年間の年貢高の平均であった。こうして具体的な数字で示せば誰をも納得させられる。畑方金も同様だった。
報徳金は領主のものでも農民のものでもない仕法のための基金であり、ある時は生活の苦しい者に無利息で貸し出し、ある時は公共工事の資金として活用した。
また、向こう一〇年間小田原への帰国報告はお構いなしにしてもらった。この事業の計画期間を一〇年にするということであり、その期間中は万事任せてほしいという宣言でもあった。
最後に彼はこう付け加えた。
「これらを確約していただければ、現在の収穫高の八〇〇石を一〇年で二〇〇〇石まで戻してみせましょう。しかしながら地味の痩せた土地ですので、最善を尽くしてもこれがやっとで、とても禄高の四〇〇〇石には至りません。二〇〇〇石でご納得ください」
そして文政四(一八二一)年一〇月、金次郎の出した条件を受諾するという報せが内々に届いた。金次郎の行った財政再建策は後世「報徳仕法」と呼ばれたが、桜町領のそれは「桜町仕法」と呼ばれることとなる。
この年、弥太郎(後の尊行(たかゆき))が誕生している。徳太郎のことがあるので心配したが、ありがたいことに今度はすくすくと育ってくれた。
そして服部家の仕法もこの年完了した。
だが服部家の仕法については後日談がある。実はこの一回だけで終わらなかったのだ。文政元(一八一八)年から嘉永二(一八四九)年の三十余年にわたり、前後三回も行われている。
それは服部家が分限をどうしても守れなかったからである。天保元(一八三〇)年に清兵衛が家督を継ぎ、さらにその子の浪江へと代替わりしたが、一向に改まらなかった。
かつての教え子でもある清兵衛への厳しい叱責の手紙が今に残っているが、結局、服部家の仕法は不完全な形で終わってしまう。世間体を気にする武士に対して分限を守らせるのはこれほどまでに難しかった。
桜町仕法でも、金次郎は苛酷な戦いを強いられることになる。
文政五(一八二二)年三月、再建策が正式に採用されると同時に、金次郎は俸禄高五石(十一俵余)、二人扶持(九俵)の名主役格に任ぜられた。名主は農民の最上位である。この時点でまだ士分にとりたてられたわけではないことがわかる。
また、桜町再建の実務を彼に任せたとは言っても、現地の形式上のトップ(主席役人)は別にいた。ここが身分制のややこしいところである。これから先、金次郎はずっとこのメンツと本音の錯綜した武士社会にもまれていくことになる。
だが金次郎の覚悟は決まっている。正式採用と同時に田畑の処分を始めた。
「金次郎さん、何も売ることはないじゃないですか?」
早く戻ってきて欲しい村人たちのそうした声に、彼はきっぱりと言った。
「帰るところがあると思うと気持ちが緩む。背水の陣で臨むのです!」
当時所有していた田畑は二町四反二六歩であったが、とりあえず、そのうちの一町四反二六歩が売れた。買い手は同じ栢山村の者で、代金は七二両一分二朱であった。売れ残った分は弟の常五郎に管理を任せ、小作に出してもらった。
文政五年八月二九日、金次郎は単身栢山村を発って九月六日、桜町に赴任し、向こうで家族の受け入れ準備などを行った。まずは住居と食糧の確保である。陣屋の敷地に一七坪の長屋を作り、食糧を自給自足するべく、そばの種を蒔いた。
その上で、同年一一月、栢山村へと戻ってきた。
まだ家屋敷の処分が残っている。
文政六(一八二三)年三月一二日、新築したばかりの屋敷と家財を六両三分二七文で売却し、翌日、妻波と弥太郎を連れ、桜町に向け出発することにした。
一両は先祖代々の供養のために善永寺に納めたが、それ以外の金はすべて桜町仕法の基金に組み入れた。こつこつ蓄えてきた資産のすべてを推譲し、桜町仕法の成功に賭けたのだ。それはまさに彼の言うとおり、退路を断った背水の陣であった。
桜町仕法は一〇年の年限で請け負っていたから、任務が終わったら戻るつもりだったのかもしれない。しかし実際には、その後、彼は引く手あまたとなって、結局、故郷に戻ることはできなかった。
そんな未来まで彼は見通していたのかもしれない。『報徳記』の記すとおり、「一家を廃して万家を興す」道を彼は歩み始めたのである。
見送りのため、東栢山から七九人、西栢山から四名が集まり、別れを惜しんでくれた。
誰しも自分が生まれ育った土地には格別の感情がある。金次郎もまた故郷を忘れたことは一時もなかった。そもそも村人が彼を頼り、しばしば手紙を送って知恵を借り続けたのだ。
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。
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