【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #22
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第二二回 桜町仕法の成功を神仏に祈って
当時の譜代大名の領地にはしばしば〝飛び地〟と言って、主たる領地と離れたところに小さな領地があり、みなその運営に苦労していた。小田原藩も下野国(しもつけのくに)(現在の栃木県)の桜町に飛び地を持っていたのだ。
桜町領は〝桜町三ヵ村〟と呼ばれ、物井(ものい)・横田・東沼(ひがしぬま)の三つの村(いずれも現在の栃木県真岡市の一部)からなっている。小田原藩にとって支藩のようなものであり、この頃の領主は宇津釩之助(うつはんのすけ)であった。
宇津家は大久保家の先祖筋にあたる。小田原藩大久保家三代目の忠朝が三男教信(のりのぶ)を分家して宇津家を旗本として再興させ、元禄一二(一六九九)年、陣屋(代官屋敷)を建設していた。陣屋が物井村字(あざ)桜町にあったことが桜町領と呼ばれる由来でもあった。
宇津家は江戸詰めで幕府の書院番(将軍の親衛隊)などをしていたこともあり、領内のことになかなか目が届かず、五代目の宇津教成の時には領内が荒廃。桜町三ヵ村で三〇〇〇石の石高であったにもかかわらず、家はわずか四三三軒、収穫米は平均して九六二俵と元禄期の三分の一にまで落ち込んでいた(「資料が語る農政家としての実像 二宮尊徳」舩木明夫著『人物で見る栃木の歴史』所収)。
その結果、体裁を整えることができなくなり、幕府への出仕もかなわなくなった。小田原藩が窮状を救ってやろうと役人を派遣し、米や金の助成をしてきたが、負担が大きくなる一方だったので、なんとかしようと対策を検討しているところだった。
だが金次郎は、服部家の財政再建に没頭するあまり愛する妻を失った心の傷がまだ癒えていない。今度こそ、妻に過重な負担はかけたくない。
「私には荷が重すぎます」
即座に断りを入れた。
あわてたのは藩の重役だ。藩主直々のお召しである。再考するよう説得された。
しばらくは、のらりくらりしていたが、藩からの圧力は次第に強くなってくる。そうこうするうちに新妻が妊娠し、彼女のお腹が日に日に大きくなっていくのをながめながら、どうしたものかと悩み続けた。
ここで背中を押してくれたのは、ほかならぬ新妻の波であった。
「旦那様、私はもう大丈夫です。是非藩のお役目をお引き受け下さい。二宮家の誉れとなりましょう」
「そなたはそれでよいのか?」
「はい」
「よくぞ申した」
金次郎、三二歳の時のことであった。
文政四(一八二一)年正月、金次郎は伊勢神宮と高野山に参拝している。大仕事を前に、神仏に覚悟を示し加護を得たいという思いからであった。
その上で、まずは現地調査に向かった。
当時の人は一日に一〇時間歩くのは当たり前。一日に三五キロから四〇キロは普通に歩いていた。男性で六、七万歩である。栢山の二宮家から桜町陣屋までは直線距離にして一四六キロある。真岡市の北西の隣が宇都宮市だから、大体、小田原から宇都宮まで歩いたとイメージしてもらえるとわかりやすい。
金次郎の健脚をもってしても三日三晩かかった。
現地に到着してみると、桜町領内は予想以上の荒廃ぶりである。
空き家や休耕田が、目立つというより、そちらの方が多いくらいだ。小田原以上に地味が痩せている。中田の下から下田の上くらいの田んぼが多かった。
モラルの低下も甚だしく、博打(ばくち)賭事の類いが盛んで、それがただでさえ苦しい生活をさらにすさんだものにしていた。
彼は、できるだけ多くの家を回り、領民の声を聞いた。
「こうなったのもお上が年貢を搾(しぼ)り取りすぎるからです。いくら働いても食うや食わずでは何の楽しみもありません。だから賭場に出入りする人間が増えるのです」
農民は窮状を訴えた。
仔細に調査すれば復活の鍵になるものが見つかるはずだ。何事にも真剣に取り組む彼は、半年の間に都合四回桜町を訪れ、徹底的に実情を調べ上げた。
そして文政四年八月、藩に対し、桜町領調査結果の復命をすると同時に再建を引受ける条件を提示した。
彼は藩の重役を前に、堂々と次のように語った。
「田畑が荒れ、収穫を得られる土地が少なすぎます。そこで再建の柱を新田開発に置きたいと考えます。荒廃の原因は収穫を増やしてもその分年貢で持って行かれ、やる気が起きなかった点にあります。そこで新田からの収穫のうち半分は切り開いた者に与え、残りの半分は次の新田を開発した者への報償に回すことにします。そうすれば桜町中の荒れ地を田畑に変えることができましょう」
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。
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