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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #43

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永遠の森43

【東京農林学校時代の恩師中村弥六】

第四章 緑の力で国を支える (13)
政治への思いを断った布引丸事件

静六はかつて政治に志したことがある。
父親も区長をしていたわけだし、政治は彼の身近にあった。彼の行動を見ても、学者というよりむしろ政治家を彷彿とさせるところがあり、素質も十分あったと思われる。
『私の財産告白』の中で〈政治には金が必要。大きな成功を実現してから臨むこと〉と書いているが、大資産家である彼が政治資金を捻出できないはずはない。
東京農林学校時代の恩師である中村弥六は早々に学者生活に見切りをつけ、明治二三年(一八九〇)の第一回衆議院議員選挙で当選して政界入りした。その他にも、帝国大学教授から政界入りする人間はひきも切らなかった。
後藤新平から政界入りを勧められてもいたのだが、彼の政治熱を一気に冷めさせる出来事があった。
それが明治三二年(一八九九)に起こった布引丸事件だった。

この当時、欧米列強の植民地もしくは影響下にあるアジア諸国の独立運動を助け、日本はアジアの盟主として彼らのリーダーたらんとする志士は多かった。当時の日本に中国革命の父と呼ばれる孫文をはじめ、各国の独立運動指導者が滞在していたのは、彼らの援助を求めてのことだ。
そうした中に、静六の師である中村弥六もいた。
政界入り後に林学博士の称号を授与されていることでもわかるように、中村は林学者らしい活躍を続けていた。
インドシナ半島の大原生林のチーク材の伐採・輸入を陸軍参謀本部の川上操六に献策し、現地に飛んで根回しを行うなど、わが国の資源獲得のためにその手腕を発揮したりもしている。
ところが、ここからという時に糖尿病を患ってしまい、余命は長くないと宣告されてしまった彼は、残る人生をアジア解放運動に捧げる決意をした。
フィリピンの独立運動支援の話が舞い込んだのはそんな時のことだ。

スペインからの独立を妨害するアメリカとの戦争(米比戦争)を企図しているフィリピン独立の指導者アギナルドが、ポンセという男を武器調達のため日本に派遣していた。だがアメリカの目も光っている中で、大量の武器調達は容易ではない。
苦慮するポンセのために中村が一肌脱いだ。
陸軍参謀本部に頼み込み、武器商の大倉組を介して、日清戦争の戦利品であるモーゼル銃や銃弾などの武器払い下げを受けてやったのだ。フィリピンに武器を送って目的を遂げた後は、その武器をそのまま孫文の中国革命運動の為に使おうという遠大な計画だった。
輸送には船がいる。中村は一部私財を投入して三井物産から布引丸という輸送船を買い取り、船員の手配までした。準備万端だ。

こうして明治三二年(一八九九)七月一九日、布引丸は長崎からフィリピンに向けて出航する。ところが不幸にも、この弾薬はフィリピンに届かなかった。
七月二一日午前、東シナ海寧波(ニンポー)沖で暴風雨に遭い、あえなく沈没してしまったのだ。フィリピン独立革命に参加するため日本人志士も同乗しており、船長以下一九名が犠牲となった。
それでも中村はあきらめない。再び弾薬の調達を開始したが、集まった時には時既に遅く、アメリカが動きを察知して猛然と抗議してきた。
万事休すである。

ここまでなら中村はよく頑張ったと世の賞賛を浴びて話は終わったのだが、その後日談があった。
大倉組の倉庫に保管されていた銃器は孫文の武装蜂起(恵州事件)に流用されることになったが、輸送の段になって数が足りないことがわかった。中村が一部を売り払い、代金を私的に費消していたのだ。
中村は〝国際詐欺師〟〝裏切り者〟と世間から叩かれ、信用は地に墜ちた。
こうして大正六年(一九一七)、彼は政界を引退せざるをえなくなる。
多額の負債が残り、生活は貧窮をきわめた。見かねた川瀬や静六たちが寄付を集め、国府津(こうづ)(現在の小田原市)に住む中村のところに持っていって生活を支えたほどだった。
失意の中、中村は昭和四年(一九二九)、この世を去った。七四歳であった。
静六は一連の顛末を見ていて、政治家になっても志を遂げることは難しく、場合によっては晩節を汚す可能性があることを痛感した。
こうして彼の政治熱は一気に冷めてしまうのである。

一方、静六を政治家に勧誘した後藤は、順調に政界での地歩を築いていた。
急死した児玉源太郎の志を受け継ぎ、満鉄の初代総裁に就任する。明治三九年(一九〇六)のことであった。
その後、第二次・第三次桂太郎内閣では逓相兼鉄道院総裁・拓殖局副総裁。寺内正毅内閣では内相、ついで外相に就任するなど華々しく活躍していく。

北里柴三郎と会食している時、後藤の話になった。
「後藤が君のことを『本多も相変わらずクソ勉強を続けているようで、いろいろ本を出しているが、あいつももう少し利口だと立派な政治家になれるのだがな』と言っていたよ。だがなあに、政治は後藤に任せておいて、おれたちはクソ勉強でやり通そうではないか」
北里は屈託のない笑いを浮かべながら、ビールの杯を上げた。
この時、静六は東京山林学校時代、島邨先生に連れて行かれた天源淘宮術(てんげんとうきゅうじゅつ)の新家春三(にいなみはるみつ)先生の言葉を思い出した。
「君は常に人から利口だえらい男だと言われよう言われようと思っているが、それが一番悪い癖の源だから、これからはあべこべに、バカになろう、バカになろうと心がけ、何でも人の言うままに従順になって、『あれは薄馬鹿だ』と言われるくらいになれば、それが君の成功の始まりだ」
思えば政治家になろうと思ったのも、人からえらい人だと言われたいという思いからだったのかもしれない。むしろこれまで通り、私財をなげうってでも社会のために尽くし、他人から利用されるくらいの存在になって〝あれは薄馬鹿だ〟と陰で言われる境地を目指すべきなのだ。
そう思うと後藤の言葉はむしろ自分への最高の褒め言葉だと、心密かに満足していた。

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