【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #12
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第一二回 犠牲を払いながらの生家再興
生家を再興するべく必死に頑張っていた金次郎のもとに悲しい報せが届く。
文化四(一八〇七)年、川久保家に預かってもらっていた富次郎が息を引き取ったというのだ。まだ七歳という幼さであった。
(早く引き取りに行ってやれば、こんなことには…。母上がご存命なら、どれほど悲しがられたことだろう)
申し訳ない思いで一杯になり、富次郎の分まで懸命に生きようと心に誓った。
この頃、川久保家に一人残され不安な日々を送っていた友吉から、窮状を訴える手紙が送られてきた。服を買う金さえなかったようだ。
手紙にはそう綴られていた。
だが友吉は金次郎と違い、まだ働けない頃から養ってもらった恩がある。金次郎は彼に、いかに苦しくともしばらくは川久保家の人々の恩に報いることを優先するようにと諭している。その上で、二分(一両、現在価値で約三〇万円)の金を貸すのでそれで山林を買い、山で伐採した薪を売って金に換えるようにと添えた。
一時の生活費を渡すのではなく、友吉が自活できるよう導いたのだ。
その後も金次郎は田地を請け戻していた。請け戻した田地は小作に出し、砂礫地のままの場所を開墾し、捨て苗を集めては植えた。荒れ地の開墾は〝鍬下年季(くわしたねんき)〟といって、田畑にしても三年から五年は無税であったからやる気も出た。
金次郎は米を売った金を決して遊ばせておかなかった。困っている人に利子をつけて貸し、少しでも増やす努力をした。父利右衛門の貸した金が返ってこなかったことを覚えているから、しっかり証文を書き利子を定め、返してくれるあてのあるところに貸し出すことを忘れなかった。そして金が貯まるとまた田地を請け戻していった。
利右衛門の代には二町三反二畝二二歩あった田畑は、金次郎が相続した時には七反五畝二九歩にまで減っていたが、文化七(一八一〇)年には倍近い一町四反五畝二五歩(一・四六ヘクタール)にまで回復させることができた。
これまでの日々はただ生きるのに必死であったが、ようやくわずかながら生活に余裕が出てきた。金次郎は決して倹約一辺倒で禁欲的な生活をよしとしていたわけではない。見聞を広めることの大切さも痛感していた。
そんな彼は一念発起し、文化七年六月二八日から七月二日にかけて富士登山を行っている。一〇月には江戸見物に出かけ、一一月には伊勢参りを行い、京都、大坂、金比羅宮(こんぴらぐう)、高野山、吉野、奈良にまで足を伸ばした。
当時は数えで一五歳からが成人である。成人になったのを機に伊勢参りに行く者も多かった。だが金次郎が成人したのは、ちょうどあの神楽が来ても一二文が払えなかった正月のことである。伊勢参りなど考え及びもしなかった。
そしてあっという間に、もう数えで二四歳(富士登山の時点では満二二歳)になってしまった。遅くなったが〝自分へのご褒美〟と成人の祝いを兼ねての旅行だったと思われる。
旅から戻るとすぐにまた精を出して働いた。
買い戻していた自宅の改修を行い、新築同然にした。兄弟三人が再び一緒に暮らすという夢はかなわなかったが、まさに生家再興の完成であった。
彼の美徳は、自分が決して恵まれた環境になかったにもかかわらず、絶えず周囲の幸せを願い、少しでも余裕ができると自分のことを二の次にして懸命に助けようと心がけたことである。
この頃、母の実家の川久保家が逼塞(ひっそく)しかかっていた。すると彼はこれを支えてやろうとする。母親のことで一時恨みもしたが、その後、弟たちの面倒を見てくれた恩返しでもあった。負の感情を引きずらないのもまた、金次郎の美徳の一つであった。
二宮金次郎という人物は学問のみならず、文化的な修養も人格の陶冶(とうや)に大切であることを理解していた。
意外なことに、芝居や相撲見物や花見にも行っているし、生け花や小笠原流の礼法を学び、謡曲も習っていた。
中でも力を入れていたのが俳諧(はいかい)(今で言う俳句)である。
金次郎より一〇〇年以上前の人である松尾芭蕉の登場により、俳諧連歌は全国に広まり、識字率の高さにも支えられ、庶民階級にもたしなむ者が多かった。小田原で有力だったのが、蕉門四哲の一人服部嵐雪(はっとりらんせつ)を祖とする雪中庵派(雪門)だった。雪中庵とは嵐雪の別号である。
小田原に近い井細田村(いさいだむら)など各地の句会に参加し、次のような句が残されている。
――雉(きじ)鳴くや七里並木の右左
――蝶々(ちょうちょう)や日和(ひより)動きて草のうえ
――落ち角(つの)や枯れいたどりの孤独勺(こどくしゃく)
彼は後に自分の教えを「道歌(訓戒を短歌形式で託したもの)」として多く残している。古今東西を問わず、指導者は言葉に力を持たせねばならない。俳句を学んだことは、こうした文字表現の研鑽に大いに役立ったはずである。
彼の俳号は「山雪(さんせつ)」。それは小田原周辺の山々の雪でもあったろうが、何より霊峰富士の高嶺に積もる雪ではなかったか。
彼は絶えず、さらなる高みを目指していたのである。
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。
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