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【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #13

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第一三回 すべての商売は、売りて喜び、買いて喜ぶようにすべし

二宮金次郎は生涯、工夫し、考え続けた人である。
畑の草取りをする時であっても工夫を凝らした。
普通、誰しも一番草が伸びているところから刈りたくなるものである。だが彼はそうしなかった。一番茂っている場所は日数がかかる。するとその間に別の場所の草が育ってきてしまい、除草する手間が増える。
そこでむしろ簡単に除草できるところから取りかかり、一番伸びているところは後回しにする。一度きれいにしたところに伸びた雑草は一目でわかるし簡単に抜けるから、このほうが合理的だというわけだ。

山林を切り拓くときも工夫した。
木を伐ってすぐ根まで掘り起こすのは、切り株がしっかりしているから効率が悪い。伐ってしばらく放っておいて、周囲を先に開墾していく。そうすれば時間と共に根は腐り、除去しやすくなるというわけだ。
どんなことにも知恵を働かせ、効率的に物事を進めていこうとした。
今もそうだが、農家の知恵は驚くほど深い。現在の農家以上に多くのリスクを抱え、家族の生命がかかっていた当時はなおのこと、皆懸命に知恵を絞った。それでも金次郎の知恵が傑出していたというのは驚くべきことである。

商売センスもあった。
小田原の米穀商武松屋(たけまつや)と仲良くなり、自分の作った米だけでなく、近所の農民の米を販売する手伝いを始めた。
すると委託販売手数料が入ってくる。
手数料に税金はかからない。ここがポイントだ。商人のように家業として大々的に商売しない限り、金次郎がする小遣い稼ぎ程度の商売に税金はかからなかったのだ。
米の貸付も始めた。翌年に新米がとれると、お礼が上乗せされて戻ってくる。
他家での労働で得た金も、米を売った金も、当面必要な金額以外は貸し付ける(〝利回し〟する)ことで財を成していった。

広く流布されている彼の言葉がある。

――すべての商売は、売りて喜び、買いて喜ぶようにすべし。売りて喜び、買いて喜ばざるは道にあらず。貸借の道もまた、貸して喜び、借りて喜ばざるは道にあらず。

現代のビジネスマンにも通じる金言であろう。

生家再興の目途が立つと、小田原藩士の岩瀬(いわせ)佐(さ)兵衛(へえ)のところへ奉公に出始めた。
岩瀬家は一〇〇〇石取りの重臣である。次いで、同じ小田原藩士の槙島総右衛門(まきしまそうえもん)に仕えた。こちらは二〇〇石取りの家である。
だが、この行動はやや奇異に感じる。給金をもらう目的であれば商家に奉公に出ることもできるからだ。常に最大効用を考えて行動する彼であれば、商家に奉公してビジネスの基本を学ぼうと考えるのが自然である。商家への奉公は丁稚奉公(でっちぼうこう)から長い下積みが必要なので避けたのかもしれないが、何か彼ならでの深い思慮があったと思われる。
実際、武士階級とのつきあいが、彼の人生に大きな転機を与えることとなる。それは小田原藩で代々家老の家柄である服部家への奉公がきっかけだった。

文化八(一八一一)年の春、家老である服部十郎兵衛の若党と親しくなり、彼を通じて用人(ようにん)(秘書役)の関谷周助を紹介された。金次郎が二四歳の時のことである。
「ちょうど若君たちの学問の世話係を探しておった。どうじゃ服部家で若党として働いてみんか?」
関谷は金次郎の才を見抜き、住み込みの若党として働くよう勧誘してきた。若党は使い走りなどをする中間(ちゅうげん)や小者(こもの)の監督役で、使用人の中では最上位だ。
「謹んでお受け致します」
金次郎はこの申し出を快諾した。

服部家の知行(ちぎょう)は一二〇〇石で、小田原藩内では三番目。屋敷面積が二〇〇〇坪もある名家だ。給金は前の奉公先より減るのだが、若君たちの世話役として学問上達の面倒を見るというのが、彼の向上心をくすぐった。
奉公に際して林蔵(りんぞう)という名をもらっている。
これが当時の慣習だった。岩瀬家や槙島家でももらっていたのだろうが不詳である。他の使用人同様、長屋門の一室に部屋をもらい、風呂がないから銭湯に通うこととなった。

  • 本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。

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