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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #37

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永遠の森37


第四章 緑の力で国を支える (7)
木曽山林学校

明治三三年(一九〇〇)、静六はようやく教授に昇格する。
帝国大学農科大学林学科の陣容は第一講座(森林利用学)の初代教授が河合鈰太郎、第二講座(造林学)初代教授が本多静六、第三講座(林政学)初代教授が川瀬善太郎と、すべて同級生が占めることとなった。
助教授就任から教授就任まで八年もかかったのはこの陣立てを整えるためだったとも言えるが、何でも最短コースを走ろうとする彼には相当なストレスだったに違いない。もっとも、対外的な発信力はとっくに教授クラスであり、彼はさらに八面六臂の活躍を見せていく。

そのうちの一つが、明治三四年(一九〇一)の木曽山林学校開校だった。日本初の林業専門の実業学校であり、この学校の草創期、静六は大きな役割を果たしている。
明治三三年二月、新たに実業学校を設立することが木曽郡議会で決議された時には、まだどんな学校にするか具体的なことは何も決められていなかった。
一方で、その二ヶ月後、静六は静岡で開かれる大日本山林会の講演会で演壇に立つことになっていた。長野県の木曽と静岡、交通事情の悪い当時、これだけ離れた場所での二つの出来事がつながるはずもない。
ところが静六が講演するという話を聞いた木曽郡役場の若手一一名は、はるばる静岡まで彼の講演を聴きにいったのだ。本多静六の名声の高さが伺える。

講演の演題は「木材利用法の進歩」であった。
例によって講談調を取り入れていたから内容が濃くても聴きやすく、大日本山林会会報には、
〈この演説に聴衆もおおいに感動し、あたかも酔えるが如くなり〉
と記されている。
この講演の最後で静六は、林業を継続していくためには次世代教育が重要であることを熱く説いた。
木曽は元々林業の盛んな土地柄だ。木曽から出かけていった人達は大いに感動し、
「例の実業学校を山林学校にしようじゃないか!」
と一気に盛り上がった。
そして同年一〇月の郡会において山林学校の設立を満場一致で可決。直ちに文部省に設置認可を申請した。

偶然にも静六は、以前から実業学校の重要性を説いていた。
大学教育だけでは林業は盛んにならないという考え方は、ドイツでも実感したし、何より土倉庄三郎を見てそう感じた。
そしてそのことは林業に限らないはずだ。
「適材適所で若者の能力を最大限引き出すためには、特別に学業ができる者以外、就職への近道を考えるのが最善の道だ。そのためにも実業高校を有効に利用するべきだ」
それが彼の持論となっていた。
彼は木曽山林学校開設の動きを聞き、すぐに協力を申し出た。そして初代校長として、帝国大学農科大学の教え子である松田力熊を推薦するのである。

松田は当時、宮内省御料局技師として勤務していたが、静岡での静六の講演を、わざわざ林業巡回先の島根から出てきて聴いている。そんな彼が木曽の人々とすぐに思いを一つにすることができたのはいうまでもない。
当時の官報を見ると、松田の年棒は一二〇〇円(現在価値にして約二四〇〇万円)であり、同時に発令された沼津商業学校校長の倍である。官吏として格の高い宮内省御料局技師からの転勤であることを差し引いても、木曽山林学校に対する政府の期待の大きさが見て取れる。

松田は清澄での造林実習にも参加している。演習林の大切さを身をもって分かっていた彼は、木曽山林学校でも演習林を開設した。
〝林学は観察の学問である〟とは、松田がこの学校に残した言葉である。
そんな彼は、学生をできるだけ現場に連れて行くよう心がけた。松田は正しく本多林学の実践者であったと言っていいだろう。こうして彼が校長であった六年間に、この学校の基礎は確立されていくのである。

静六も応援した。表面的にではない。なんと彼らのために教科書の執筆まで行っているのだ。
木曽に出張し、しばしば講義もした。そんな時、彼は林学の基本のみならず、人生いかに生きるべきかという人生論も語ったという。彼らに注ぐ静六の思いは深く温かい。
残念ながら木曽山林学校は平成二一年(二〇〇九)に閉校した。
だが林学教育の場としてのそれは長野県立木曽青峰高等学校に引き継がれ、同校の新開キャンパス演習林管理棟二階に設置された木曽山林資料館のHPを見るにつけ、静六たちの思いがしっかりと次世代に受け継がれていることを痛感する。

その社会的功績の大きさから、平成二五年(二〇一三)、「旧木曽山林学校にかかわる林業教育資料ならびに演習林」が林業遺産に認定された。
このことを泉下の静六は、松田とともに喜んでいるに違いないのだ。

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