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【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #33

二宮尊徳はどんな人か。かう聞かれて、尊徳のことをまるで知らない人が日本人にあったら、日本人の恥だと思ふ。それ以上、世界の人が二宮尊徳の名をまだ十分に知らないのは、我らの恥だと思ふ。

武者小路実篤

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前回までのあらすじ

豊田正作の妨害工作で金次郎はやる気を失い、危機に瀕した桜町仕法であったが、余人をもって代えがたい存在であることを再認識した藩庁と領民の支持の下、金次郎は仕法に復帰。成田山参籠や小谷三志との出会いによって金次郎の思想はさらに成熟の度を増し、思想爆発と言われる過程を経て後世に残る報徳思想が完成を見るのである。

第33回 青木村仕法

桜町仕法の第1期が修了した頃から、金次郎の再建家としての名声は近在に聞こえ始めた。
すると近隣諸藩諸村からも仕法依頼が入り始める。
桜町仕法だけでも多忙を極めていた金次郎は、最初は慎重な姿勢を見せていたものの、やがてその要請に応えていく。
その最初が、桜町領の東南3里(約12キロ)ほどに位置する常陸国真壁郡(ひたちのくにまかべぐん)青木村(現在の茨城県桜川市青木)で行なわれた青木村仕法であった。
領主は川副勝三郎頼紀(かわぞえかつさぶろうよりのり)。
石高1500石という小身の旗本だ。
元禄の頃は豊かな実りを享受していたこの村も、洪水で桜川の青木堰が壊れたことから状況が一変していた。
青木村は三方を山に囲まれている。
南には足尾山と筑波山がそびえていた。
この一帯に大きな川はない。
堰が壊れるとてきめん水を田に引けなくなって耕作放棄地が増え、人口も減少していった。
川副が領主となる以前、この地は天領(幕府領)で真岡(もおか)の代官が治めていた。
青木堰も元禄15(1702)年に幕府の手で建設されたものだった。
それから140年の年月が経ち、経年劣化もあって壊れてしまったのだ。
改修を領主に申し出ても財政難の川副家には改修する余力などない。
「村でなんとかせよ」と繰り返すばかりだ。
村では少なくとも改修に300両(現在価値にして約9000万円)はかかると試算しており、今の財政状況では如何ともしがたいと手をこまねいていた。

現在の青木堰(当時の場所より10mほど上流に移動している、著者撮影)
青木堰跡(著者撮影)

人が減った代わりに増えたのが茅(かや)だ。ススキやチガヤなどの総称である。ともにイネ科ではあるが、藁と比べて脂分を多く含んでいるため水をはじく。そのため屋根を葺(ふ)く材料として使われた。
重要な資源ではあったが、あまりに多いと問題だ。野火が頻発するなどして手が付けられない状況となっていた。

名主の舘野勘右衛門(たてのかんえもん)は、桜町仕法でその名を高からしめている金次郎にすがろうと考え、天保2(1831)年11月30日、村民37名が連署した陳情書をもって桜町陣屋を訪れた。
冷たいみぞれの降る日のことであった。
先述したように、当初、金次郎は慎重な姿勢を見せた。
桜町仕法にあっては小田原藩の協力があったが、青木村の領主川副氏の無為無策はあきれるばかり。
仕法に協力してくれるかはなはだ心許なかったからである。
また青木村の領民にも不満がある。
金次郎は勘右衛門に厳しい言葉をぶつけ反省を促した。
「あなたがたは村の荒廃の原因を堰が壊れたためだと考えているようだが、用水がなければ田を畑として雑穀を作ることもできる。肥やしを与え、しっかり耕せば畑は田に勝る。田は1作が普通だが、畑は二毛作が可能である。そうすれば貧しい村を富ませることができ、村の再興も可能なはず。現在の村の困窮はいわば自業自得である」
これには返す言葉もなかった。

勘右衛門も村民を代表してここまで来たのだ。
すごすごと帰るわけにはいかない。
彼は涙ながらにこう訴えた。
「先生のおっしゃる通りですが、村はすでに困窮の極みにあります。これまでのことは反省致しますので何卒お救いください」
「人は生きるか死ぬかという時にはどんな難儀もいとわないと言うが、少し良くなると元に戻る」
「いえ私どもは、いつまでも変わることなく先生のお教えに従います!」
切羽詰まっているとは言え、その言葉に噓はなさそうである。
金次郎はじっと思案していたが、やがてこう告げた。
「これまでの収穫高を知りたい。そして回村したうえで、仕法を行うか考えよう」

ここで少し、金次郎の立場に立って考えてみたい。
彼は桜町領の再建には責任を負っているが、青木村は管轄外である。
むしろ桜町領では積極的な入百姓政策をとっていたから、青木村の荒廃によって逃散してきた農民が桜町領に来てくれるのは大歓迎だ。
青木村を豊かで住みやすい村にしたら、桜町領から人が流出する可能性さえある。
利己的な人間であったなら、そうした打算がすぐ頭に浮かんだはずだ。
だが金次郎はそのような狭量な人間ではなかった。
彼の目指すものは万民が幸せになる道であった。
そして、自分にしか再建できまいという自負と社会的責任も感じていた。
当時の藩中心、家中心の時代にあって、彼の示した博愛の精神は極めて例外的なものだ。
二宮金次郎の時代を超越した偉大さは、まさにこうした他家での仕法実施の中に現われているのである。

  • 本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で1ヵ月遅れで転載させていただいております。

  • 次回は11月22日更新予定です。