【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #27
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第二七回 成田山参籠
文政一二(一八二九)年正月、金次郎は小田原藩の江戸藩邸に呼び出され、わずかな従者を連れて桜町を発った。
江戸藩邸で待っていたのは江戸詰の家老鵜沢作右衛門(うざわさくえもん)だ。鵜沢は栢山に親戚がおり、金次郎とは幼い頃から旧知の仲である。
いささか教養に欠けた人物であったようで、次のようなエピソードが残っている。
いかに自分の家臣とはいえ、〝無学〟との物言いはあんまりである。
ともあれ、鵜沢は金次郎をいきなり詰問した。
「名主たち連名の嘆願書が届いておる。それによれば、おぬしのやり方では困窮者が増すばかりで即刻仕法を中止してほしいと書いてある」
金次郎は、物言えば唇寒しだとしばらく黙っていたが、やがて意を決しておもむろに口を開いた。
「弁明するつもりはございません。すみやかに私の任務を解かれ、訴えた者にこれをお任せ下さい。彼らが桜町領を再興できましたなら、私としてはこれ以上の喜びはございません」
これには家老の鵜澤が慌てた。
「そちには期待しておる。もうしばらく様子を見ることにいたそう」
そう言いつくろわれ、その日は黙って退出した。
豊田がいる限り、同じ結果になることは明白。江戸まで出てきてわかったことは、藩庁も頼りにならないということだった。とてもこのまま桜町に帰る気になれない。
「わしはちょっと立ち寄りたいところがある。申し訳ないが、先に帰ってくれ」
そう従者に声をかけた。
正直に言えば桜町に帰りたくなかっただけだ。現代風に言えば出社拒否といったところであろうか。
幸いにも今は農閑期だ。金次郎は気晴らしに江戸藩邸から川崎大師にお参りに行き、今度は日光街道を日本橋から千住へと北上し始めた。
関東には真言宗智山派の三大本山がある。川崎大師平間(へいけん)寺と高尾山薬王院と成田山新勝寺だ。高尾山は桜町とは逆方向なので、金次郎は成田山を目指して歩き始めた。
(また小谷さんに会いたい)
途中、鳩ヶ谷の宿に到着した金次郎は、早速小谷の名前を出して家を探し始めた。ところが意外なことに誰も知らない。
そのうちある者が、
「それは横町の手習師匠の庄兵衛のことじゃろう」
と合点して家を教えてくれたところ、まさにそれが小谷三志その人であった。
第八世大行者と言っても信者から布施を集めることは一切しなかった。清貧に甘んじ、日頃は手習いの師匠をして生計を立てていたのだ。
(小谷さんらしい)
そのすべてが好ましかった。
金次郎はどうして小谷を訪れたかを語らず、小谷もまた問わない。ただただ世の中をよくするためにはどうすればいいかを寝食を忘れて語り合った。
金次郎は後述するように、天保三(一八三二)年一一月から(第一次)思想爆発と称される、報徳思想の根幹をなす様々な思想に目覚める。あふれ出す思いを周囲に語るだけでなく、盛んに日記や反古(ほご)紙に記していくのだが、その思想表現にしばしば不二孝の用語が見受けられるのは、小谷との距離の近さを考えれば自然なことであった。
一方、その頃の小田原藩は。一月四日に江戸藩邸に呼ばれて以来、金次郎が行方不明になったことで大騒ぎだ。一月一〇日には、心配した東沼村名主弥兵衛以下五名が江戸表に捜索に出たが、見つけることができずやむなく帰村している。
こうして金次郎の逃避行はしばらく続くのである。
無事成田に到着した金次郎は、門前にある一軒の宿屋ののれんをくぐった。
「小田原藩の者ですが、成田山で修行したいと思っております。しばらく逗留(とうりゅう)させてはいただけまいか」
宿の主人は、金次郎の様子を不審に思った。物腰が柔らかく一向に武士らしくない。
(そもそも武士が職務を投げ出して修行に来るなどということがあるだろうか…)
怪しんだ亭主は彼の宿泊をやんわりと拒んだ。
金次郎は筋の通らないことは大嫌いな性格である。
「私の言葉を疑っておられるとは心外だ。本当に小田原藩士であるかどうか是非ご確認いただきたい」
考えてみれば、行方をくらましてから、もう一ヵ月半も経つ。さすがにそろそろ藩に自分の所在を伝えておこうと思った金次郎は、藩宛ての手紙を宿屋の丁稚(でっち)に託した。ただし豊田のいる桜町陣屋ではなく、鵜沢のいる江戸藩邸へであった。
宿の主人もひとまず金次郎を部屋に通した。
成田から江戸へは一二里(約五〇キロ)、一日行程の距離である。翌々日に戻ってきた丁稚の報告により、客は紛れもなく時の老中大久保忠真の家臣だとわかって、宿の主人はあわてふためいて頭を下げた。
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。
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