【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #17
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第一七回 二宮総本家再興
金次郎は文化二(一八〇五)年、満一八歳の時、二宮総本家再興を期してある布石を打っていた。総本家が田畑すべてを売り払った後にぽつんと残っていた稲荷社を垣根で囲い、そこで竹林を育て始めたのだ。
四年後の文化六(一八〇九)年、生い茂ったところで伐採して売却すると四朱七〇文を得た。これに金次郎は自分の金を一一朱一八〇文足して一両(現在価値にして三〇万円)とし、総本家復活の基金とした。
報徳思想の根幹が「分度」と「推譲」であることは既に触れた。
収入より少なく支出を見積もって「分度」を設定し、倹約によって「分度」を守れば余剰を生じる。この余剰を自分のために譲り、あるいは社会のために譲るのが「推譲」である。前者を「自譲」、後者を「他譲」と呼ぶ。「自譲」はすなわち貯蓄や投資であり、これまで彼が実践してきたことだ。
二宮金次郎の人生は、何ものかを人に与え(譲り)続けた人生だった。彼は自分の知恵を、お金を、人に与え(譲り)続けた。
そして「他譲」に関して言えば、二宮総本家再興の基金として自己資金を拠出したのが、はっきりとした形をとったという意味で記念すべき第一歩だった。
彼はこの一両を年利一割五分(一五%)で貸し付け、複利で回すことを企図した。遠大な計画だが複利運用の力は大きい。
そのうち他の一族の者も、収穫米の一部を「推譲」してくれるようになった。
結局、五〇年の歳月を要したが、一族共同での法事と一族の子弟の出精人表彰制度を実現し、嘉永七(一八五四)年、見事二宮総本家再興を果たすのである。
その五年前の嘉永二(一八四九)年、彼は善栄寺と二宮一族に書簡を送り、墓地の整理に着手している。
最初にやったことは二宮一族の墓地を石垣で囲ったことだ。石垣は、困難に直面した際、一族が結束して危機を乗り越える象徴としてのそれであった。この石垣は今でも、わずかにその痕跡を留めている。
その上で彼は、一族の先祖と両親の供養のために墓碑を建立した。
正面には二段にわたって一〇人の戒名が彫られており、上段は右から総本家初代の伊右衛門夫妻、最後に窮死した九代儀兵衛、三代万兵衛夫妻、下段は右から祖父銀右衛門、伯父である四代万兵衛夫妻、そして父母の順となっている。
総本家や万兵衛家の戒名を加えることで、祖先への感謝の気持ちを形で示したのだ。
金次郎に財政再建策を立案してもらった服部家だったが、彼らは結局、自分たちの力ではそれを実行に移すことはできなかった。
そのため文化一四(一八一七)年には、借財は二一四両(六億四二〇〇万円)に達した。
「もう一度戻ってもらえぬか」
金次郎の元に、二度三度と当主の十郎兵衛から督促が来た。
新婚の金次郎にとっては迷惑な話である。再建には少なくとも五年はかかる。それは以前彼が作成した「御家政御取直趣法帳(おんかせいおんとりなおししゅほうちょう)」が五年半の計画書であったことでもわかる。その間、金次郎は住み込みでこれにかかりっきりとなるのだ。
だが責任感の強い金次郎は、
(ここは乗りかかった船、後には引けない)
と引き受けることにした。
現代人の感覚からすれば、妻きのの気持ちをもっと考えてやるべきだったのだろうが、この時の金次郎は妻を自分と一心同体の存在だと考えており、自己犠牲を彼女にも強いた。
そのことを後に、彼は激しく後悔することとなる。
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。
次回は8月2日更新予定です。