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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #70

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零戦と少女

最終章 若者にエールを送り続けて (3)
晴耕雨読の楽隠居

昭和の初め頃から、戦時色が日に日に濃くなっていく。
そして昭和一六年(一九四一)一二月八日、ついに太平洋戦争の火蓋が切られた。
有名な〝欲しがりません勝つまでは〟という標語は、昭和一七年(一九四二)に大東亜戦争開戦一周年を記念し、「国民決意の標語」として大政翼賛会と新聞社が募集した三二万点のうちの入選作である。 
資源の少ないわが国では、開戦と同時に極度の耐乏生活が求められていた。
そこで軍部は静六が勤倹貯蓄で知られていることに目をつけ、広告塔として使い始めた。昭和一六年には貯蓄増強、生産合理化研究会の各委員に、翌昭和一七年には戦時貯蓄中央協議会の委員に任命されている。
静六としても軍部に積極的に協力した。戦争が始まったなら何が何でも勝たねばならない。愛国心の人一倍強い彼は、進んで協力を申し出た。
そして昭和一七年六月に発刊したのが、そのものずばり『決戦下の生活法』である。
口絵には二〇坪の家庭菜園と〝山陽道〟と呼ばれた継ぎだらけのズボン下の写真が掲載されている。

〈日清戦争には、目的を果たさなかったが、従軍を血書志願し、日露戦争と第一次世界大戦には当局に多くの進言を敢えてした私の愛国の熱誠が、大東亜戦争には生活改善の提唱となって現れ、国民に歓喜と光明を与えることができたら、私は日本一の果報者でしょう。それこそ文字通り老骨にむち打って最後のご奉公を励まなければなりますまい〉

決戦下の生活法

そんな意気込みが語られていた。この時、静六は七五歳であった。
しかしこの戦争は、明らかに日清・日露戦争とは違っていた。昭和一八年(一九四三)一〇月二一日には雨がそぼ降る中、静六も関与した神宮外苑競技場で学徒出陣式が行われている。
敗色濃厚になっていく中、将来ある有為な若者たちが次々に戦地に送られ、白木の箱に入って帰ってきた。かつて大学で教鞭を執り、若者たちへの思いのことのほか強かった静六にとって、それは身を切られるような思いだった。
心折れた静六は、これ以上軍部に利用されることに耐えられなくなり、東京を離れ、地方に隠棲することを決意する。いつの間にか七五歳を過ぎていた。

そもそも七〇歳からは山紫水明の温泉郷で晴耕雨読の楽隠居というのが、二五歳の時に彼が立てた人生計画だった。計画を先延ばしてきたわけだ。
〝山紫水明の温泉郷〟にこだわったのは〝抵抗力の減じゆく老人にはそうした場所が最適であろう〟との思いからと、東京山林学校の生徒だった頃、島邨先生に日光湯元温泉に連れて行ってもらった時の感動からであった。伯父に天丼を食べさせてもらったこともそうだが、若い日の楽しい思い出は、苦労が多かっただけに忘れ得ぬ人生の宝物だった。
静六は六ヵ所も別荘を持っていたが、その理由が振るっている。東京よりも安く暮らせるからだというのだ。
箱根の強羅(ごうら)の別荘は建物こそ二〇坪ほどの山小屋だったが、
「来客用に百畳敷を用意してあります」
とうそぶくほど敷地が広かった。
マツ林の間に広がる芝生にむしろを引いてちゃぶ台を持ってくれば、そこはまさに広大な風景を楽しめる百畳敷の客間になった。はるかに相模湾を望み、城ヶ島の灯台も見える。教え子や友人たちを招き、手打ちのそばを御馳走して楽しんだ。
だが彼は隠居の場所として新しい場所を選んだ。それが静岡県伊東市郊外の鎌田(かまた)だった。
修善寺行きのバス道路沿いの高台で、伊東駅から歩くと一時間ほどかかるが、大室山(おおむろやま)や海が遠望できる眺めの良い場所だ。市内に下りれば至る所に温泉が湧いている。道の下に国立伊東温泉病院(現在の伊東市立伊東市民病院)があるのも安心だ。おまけに、すぐ近くに彼が『大日本老樹名木誌』の中でわが国二番目のクスノキの巨樹に挙げた葛見(くずみ)神社の大クス(国の天然記念物)がそびえ立っている。文句の付けようのない場所だった。ちなみに静六と同い年の若槻礼次郎元首相も伊東に別邸を構えており、八三歳でこの地で亡くなっている。
昭和一七年(一九四二)、静六はここに家を建て、終の棲家(すみか)と定めた。伊東への移住を機に、日本鉄道以来務めていた鉄道院の嘱託を含むほとんどの公職を辞することとした。
これはいわゆる疎開ではない。
昭和一七年と言えば、この年前半に日本軍はマニラやラバウルを占領し、マッカーサーをフィリピンから撤退させている。六月のミッドウェー海戦で壊滅的大敗を喫するが、国民のほとんどはそのことを知らされず、本土空襲など想像もしていなかった時期であった。 
同じ年、南多摩郡鶴川村能ヶ谷(のうがや)(現在の町田市能ヶ谷)に茅葺き屋根の農家を買って武相荘(ぶあいそう)と名付け、農民になると宣言して引きこもったのが白洲次郎(しらすじろう)である。
これはあくまで筆者の推測だが、静六が隠棲の地として鎌田を選んだ理由は、畑地付きだったからではあるまいか。実際、静六は伊東に来てから夢中で野菜作りに取り組んでいる。
静六も白洲次郎も、この戦争の結末と、食糧危機に直面する未来がすでに見えていたのかもしれない。
家を建てるに当たっては例によってこだわりを見せた。
通風、採光に工夫を凝らし、常用する食堂兼居間は東南の一番良い場所にした。屋根裏はネズミの運動場にならないよう物置としたので、平屋ではあるが二階建てのような構造である。
この家を彼は歓光荘(かんこうそう)と名付け、いく夫人と二人きりの生活が始まった。

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