【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #68
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最終章 若者にエールを送り続けて (1)
優秀な子や孫たち
静六の人生は順風満帆、向かうところ敵なしの快進撃のように見える。しかし人生に哀しみの翳(かげ)を持たない人間などいない。彼もまたそうであった。
人生で最大の不幸の一つは、わが子を失うことだろう。三男四女をもうけた本多夫妻だったが、次女の美祢子を数え三歳で、次男の武を数え五歳で亡くし、おそらく日露戦争勃発の月に生まれたので勝と名付けられたであろう三男も、一旦は關(せき)イシという人のところに養子に出たが、数え二〇歳の若さで早世し、今は本多家の墓地で一緒に眠っている。
著書の中で子どもたちについてほとんど触れていないのは、悲しい思い出が多すぎたからなのかもしれない。
ただ、その哀しみを忘れさせてくれるほど、多くの孫、曾孫たちに恵まれた。これは当時にあって大変幸せなことであった。
彼の親友である川瀬は子宝に恵まれなかったし、河合には二人娘がいてそれぞれ素晴らしい伴侶に恵まれたが、養子に迎えた弟の四男は海軍少佐として太平洋戦争に出征し、戦死している。
産めよ増やせよと言われたこの時代、子孫繁栄は長寿とともに人々の共通した願いだった。そういう意味では、静六はやはり幸福な人生を送ったと言うべきだろう。
博の子どもは健一だけだが、娘たちは子だくさんだった。そして皆優秀だった。それもそのはず。娘の嫁ぎ先にも自分同様、大学の首席である男性を相手に選んでいたのである。
ここからは、やや人物と経歴の羅列のようになるが、本多静六のDNAがどう広がっていったかを体感していただくことにしたい。
まず長男博の家族から見てみよう。
博は東京第一弁護士会所属の弁護士だったが、静六に似て活躍の場は広かった。旭冷蔵工業を設立して社長に就任。富士見中学校高等学校の創立にも参画。静六譲りの政治力を佐藤栄作元首相のブレーンとして発揮し、『佐藤栄作日記』にもその名が見える。
妻の峰子が実業家外山修三の三女であることはすでに触れた。
そして二人の間にできた一人息子が健一だ。東京大学工学部を卒業後、電気化学の分野の第一人者として、東京大学教授、京都大学教授を歴任した。
最大の業績は、水溶液中の酸化チタン電極に強い光をあてると酸化チタン表面で光触媒反応が起き、水が電気分解されて酸素が発生するというもの。共同研究していた東京大学大学院生の藤嶋昭(後の東京理科大学学長)の名前と合わせ、〝本多・藤嶋効果〟と呼ばれている。
これは人工光合成の実現につながる研究として大変注目されている。将来、我々の子孫が地球の外に出て行った際、酸素を作り出しているのはこの本多・藤嶋効果を応用した機器かもしれない。まさに健一は、研究室から〝永遠の森〟を創り出すことに成功したと言えるだろう。
文化功労者、日本学士院会員にも選任され、朝日賞や日本国際賞を受賞し、毎年のようにノーベル賞の候補に挙がっていたが、平成二三年(二〇一一)に八五歳で死去した。ノーベル賞は生前の人にしか授与されない。藤嶋教授の受賞に期待するところ大である。
長女輝子は青山女学院(現在の青山学院)を卒業後、林学者の植村恒三郎(つねさぶろう)に嫁いだ。
植村は旧会津藩士の子弟で、会津中学、第一高等学校を経て東京帝国大学林学科を一八名中首席で卒業。九州帝国大学の教授兼演習林長となり、入会地の研究で知られる。
四男一女に恵まれ、長男敏彦は東京帝国大学医学博士で国立療養所東京病院第一内科医長、第一診療所所長を歴任。次男誠次は東京帝国大学農学博士で、林業試験場土壌部土壌肥料科科長。三男秀三(ひでかず)は東京帝国大学法学部を卒業後、東京高等裁判所判事を務め、数多くの論文を発表。第一回刑事政策審議会賞、第三回日本犯罪学会賞を受賞するなど犯罪学の権威となった。四男恒義は東京大学工学博士で精密測定学を研究した東京大学名誉教授。長女幸子は河内家に嫁ぎ、次男の河内十郎は神経心理学を専攻し、東京大学名誉教授である。
三女伊佐子は実践女学校(現在の実践女子大学)を卒業後、植村同様林学者で、東京帝国大学農学部長となった三浦伊八郎(みうらいはちろう)に嫁いだ。
三浦は日本大学農獣医学部長、大日本山林会会長、帝国森林会会長(静六の後継者)にも就任し、木炭やパルプなどの研究で大きな業績を残した。面白いのは出身地の和歌山に建設された南方自然科学研究所の所長に就任していることだ。静六が何度かぶつかった南方熊楠の顕彰に、婿の三浦が尽力したというわけだ。
三浦夫妻は二男二女に恵まれ、長男高義は東京帝国大学農学博士で東京大学教授。次男道義は東京帝国大学法学部を卒業し、大蔵省を経て第三銀行(現在の三十三銀行)頭取に就任する。
四女康子は日本女子大学を卒業後、森林行政に深く関係する内務官僚の大村清一(せいいち)に嫁いだ。
岡山県津山出身の大村は、異色なキャリアの持ち主だ。鹿児島高等農林学校(現在の鹿児島大学農学部)卒業後、進路を変えて京都帝国大学法科大学独法科に進学した。卒業後、内務省に入省。神奈川県知事、長野県知事を歴任し、文部次官を経て日本育英会の初代理事長となる。戦後、第一次吉田内閣の内務大臣、第一次鳩山内閣では防衛庁長官に就任。日本林業協会会長、相模女子大学の学長も務めた。
大村夫妻は三男二女に恵まれ、長男の襄治は父親同様、防衛庁長官を務めている。
誠にあきれるほど優秀な子や孫、曾孫たちである。
優秀な結婚相手を探すことに自信を抱いた静六は、
「婿探し嫁探しは本多静六に限る」
と自画自賛し、周囲の若者の結婚相手を見つけてくることを生き甲斐にしていく。
要するに世話焼きなのだ。ちなみに河合鈰太郎はその第一号で、本郷をはじめ門下生の多くも静六に伴侶を世話してもらっている。
「なんでも一番になれ。鶏口(けいこう)となるも牛後となるなかれ」
が静六の口癖で、子や孫にもそればかり言っていたそうだが、実際、皆言われる通り一番になっていった。今時、そんなことを言っていたら、反発してぐれてしまうこと請け合いだろう。父権の強かった戦前の話である。
きわめつきのエピソードがこれだ。
昭和一三年(一九三八)の春、植村の三男秀三、 大村の長男襄治と三浦の次男道義がそろって束京帝国大学法学部に入学し、静六のところへ挨拶に行った。
彼はこの快挙を喜び、
「祖父(じい)としてこんな嬉しいことはない」
と相好を崩したところまでは良かったが、さらに高みを目指させようとした。
「ついてはお前たちの励みのために懸賞金を出すことにしよう。一番になったら三〇〇〇円、二番だったら二〇〇〇円、三番だったら一〇〇〇円だ。しっかり励みなさい」
三〇〇〇円と言えば家一軒買える金額である。大村襄治は内務省に進み、 植村秀三と三浦道義は一年遅れて、それぞれ法曹界(判事)と大蔵省に進んだ。
大村と植村がいくらもらったか、もらわなかったのかは判然としないが、少なくとも三浦は首席卒業できたので約束通り三〇〇〇円もらったと書き残している。すぐ祖父の教え通り貯金したが、戦後のインフレで価値が下がってしまいがっかりしたという。
その三〇〇〇円をもらった孫の三浦道義は、静六のこんな思い出話を紹介している。
孫に〝心から愛し、尊敬しています〟とまで言われるおじいちゃんが、世の中にそうそういるとは思えない。静六は本当に幸せ者であった。
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