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【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #41

二宮尊徳はどんな人か。かう聞かれて、尊徳のことをまるで知らない人が日本人にあったら、日本人の恥だと思ふ。それ以上、世界の人が二宮尊徳の名をまだ十分に知らないのは、我らの恥だと思ふ。

武者小路実篤

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第41回 僧円応

天保七(1836)年の天保の大飢饉の際、桜町の北隣りの烏山(からすやま)藩では、飢民による米屋の打ち壊しが発生していた。
烏山藩は現在の栃木県那須烏山市に位置する。相模国(現在の神奈川県)に点在していた飛び地と合わせ、石高は3万石。小田原の大久保家の分家が領する地域だが、収入は18世紀前半の享保年間の半分ほどになっており、とても民衆の飢餓を救える状態ではなかった。

ここに烏山藩主の菩提寺である曹洞宗天性寺(てんしょうじ)の住職で、円応(えんのう)という者が登場する。
円応はただの僧ではなく、行動の人であった。
現在の宮城県柴田郡村田町にある松山寺(しょうざんじ)の住職をしていた頃から荒れ地の開拓に力を入れ、天性寺に来てからも自費で新田開発に力を尽くしていた。精神的安寧は、ある程度の生活の安定の中からしか生まれないことを彼は知っていたのである。
だが彼一人の力では烏山藩の窮状はとても救えない。そこで金次郎の名声を頼り、助けを求めに来た。
ところが金次郎は、桜町、青木村、谷田部藩の仕法で超多忙だ。
「私は小田原藩に仕える身であり、とても他藩のことを顧みる余裕はございません」
と断りを入れた。
これまでも見てきたように、金次郎が依頼を断るのはお決まりのこと。依頼者の側に、断られても断られても食らいついてくる強い覚悟がないと、仕法の完遂など夢のまた夢だからだ。
円応も必死である。なんと彼は桜町陣屋の前に座り込んで断食行を始めたのだ。2日経っても、3日経っても、その場を動こうとしない。
これまでにない強烈な依頼者である。ついに金次郎も根負けし、円応にこう言った。
「もし民の苦しみを嘆くならば、私でなくまず藩主に進言されるのが筋ではござらんか?」
金次郎の言うことはもっともである。それに報徳仕法が領主を含めた藩全体で取り組む再建手法であることは風の噂で聞いている。
そこで円応は烏山に帰り、家老の菅谷八郎右衛門(すがやはちろうえもん)に相談を持ちかけた。

  • 本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で1ヵ月遅れで転載させていただいております。

  • 次回は1月31日更新予定です。