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【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #34

二宮尊徳はどんな人か。かう聞かれて、尊徳のことをまるで知らない人が日本人にあったら、日本人の恥だと思ふ。それ以上、世界の人が二宮尊徳の名をまだ十分に知らないのは、我らの恥だと思ふ。

武者小路実篤

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第34回 極楽普請

勘右衛門が急ぎ資料を整えて提出すると、それらに目を通した金次郎は約束通り青木村にやってきて回村を始めた。天保2年12月のことであった。
もう心の中では仕法を引き受けてやるつもりでいる。まずは彼らのやる気に火をつけねばならない。
金次郎はまず、視覚的に荒涼たる感じを抱かせ、野火を頻発させ、彼らに絶望感を植え付けている村中の茅を刈ってしまうことを考えた。
ただ命じるだけで人は動かない。
彼は何と、
「お前たちが刈ってきた茅は、30駄(だ)(一駄は一頭の馬に背負わせる量)につき1分(ぶ)で買おう」
と提案したのである。
村人がやる気を出したのはいうまでもない。老若男女総出で、3日間に1778駄(だ)を刈りとった。予想を遙かに上回る量だった。
それでも金次郎は約束通りの金額で買い取った。
それだけではない。買った茅を使って、村の鎮守である青木神社をはじめ、寺社堂7棟、崩壊寸前の民家31軒の屋根葺きをしたのだ。これらをすべて報徳金で負担した。
報徳金は金次郎の拠出した金も含まれてはいるが、桜町領の者の善意が集まったものであり、無駄に流用することは許されない。だが金次郎には勝算があった。そして、困窮している者が前に進むための最初の一歩を後押しするためには惜しげもなく使った。
野火の危険は去ったが念のため、モチノキを生け垣として植えることを推奨した。常緑樹であるモチノキの葉は肉厚で水分を多く含み、古くから防火樹として知られていたのだ。

領主川副氏の了解なく仕法を進めることは出来ないが、一番問題となっている堰に関しても応急措置くらいはしてやりたい。そこで仮工事の堰止めを天保3(1832)年7月18日に着手し、8月6日に完成させた。
工事費用は報徳金から貸し付ける形を取った。どんなに貧しい村にも豊かな農民はいるものだ。金次郎は彼らの地所を担保とすることを提案し、了承されたのだ。これは彼らの覚悟を試すことにもなった。
村民は工事に不馴れなため、金次郎は桜町から土木工事用の道具を持ってきただけでなく、その方面に熟練した土木作業員も連れてきた。
とりあえずある程度の用水は確保できたが、荒廃地を田畑に戻す分量にはほど遠い。一日も早く本工事ができるよう、金次郎は勘右衛門に領主を説得するよう命じ、ひとまず桜町に帰っていった。

翌天保4(1833)年2月、川副家の用人並木柳助、金澤林蔵の両名が領主川副勝三郎の書状を持参して桜町陣屋にやって来た。1500石の小身とはいえ、将軍お目見え以上の旗本が金次郎に辞を低くして依頼状を書いてきたのである。
領主川副氏への年貢は米80俵、銭30貫余(畑作分)と分度が決められ、これで金次郎も腹をくくった。だがこの時、分度を文章で交わしていなかったことを後に激しく後悔することとなる。
3月3日、桜町陣屋を出発し、青木村を回村した金次郎は、村内の様子から村民のやる気が出ていることを肌で感じた。
いよいよ青木堰の本格的改修である。
堰の周辺は砂地であり難工事が予想されたが、金次郎はすでに土木工事の経験を十分積んでいる。それは書物で学んだものでなく、経験で身につけたものだった。
彼は栢山で、洪水にも耐える茅葺き屋根の家をいくつも見てきた。そこで茅葺き屋根と同様のものを作り、それを川に落として沈め、工事の足場にしようと考えた。
この奇想天外な計画を聞かされた村人たちは耳を疑ったが、もし可能ならきわめて効率的な工法だ。
3月7日、例の桜町領の熟練土木作業員たちが到着した。
金次郎に鍛えられただけあって段取りの早いこと早いこと。水の勢いを止める岩を近くの青木山から掘り出し、欅(けやき)、杉、檜(ひのき)、松の大木が切り出され、水を汲み出すための踏車(ふみぐるま)が製作された。金次郎の設計図に基づいて事業区画が決められ、堰堤(えんてい)の築造が始まった。
酒の好きな者には酒、餅の好きな者には餅を喰べさせ、士気を鼓舞した。そして計画通り、まずは川の上流の土手に、川幅にあわせ茅葺の屋根を作った。
茅葺の屋根ができあがると、これを両岸より引っ張り、川の中央に吊り上げた。
「誰か屋根に上って綱を切ってくれ!」
川に屋根を落とすよう金次郎が命じたが、誰も怖がってやろうとしない。
(しかたない!)
見かねた金次郎がトントンと軽やかな足取りで屋根の上に上ると、腰の刀でさっと綱を切った。すると茅葺屋根は旧堰の棒杭に引っかかり、やがてゆっくりと沈んでいった。沈むのはゆっくりだから余裕で岸へと戻ってこれた。何も彼は、特別危険な作業を命じたわけではなかったのだ。
間髪入れず金次郎は叫んだ。
「皆の衆! あの上へ石を投げ込め!」
こうして、まずは屋根を沈めた。それだけでは足りない。周囲に土嚢や蛇篭を投げ入れ、ようやく流水は堰止められた。
底の見えた川底に堰が組立てられていった。大小2つの水門を備え、水量の少ない時は小門を開き、多い時は大門を開くという合理的な設計だ。そのため新青木堰は大雨にもよく耐えた。実に堅固な作りだった。
工期はわずか10日間、水路の堀普請まで含めても17日間しかかからなかった。要した人夫は1303人、茅1245駄、米173俵。かかった工事費は60余両。
当初、村では改修に300両かかると試算していたのだから噓のような工事費である。青木村の人々は、この工事のことを「極楽普請(ごくらくぶしん)」と呼んで称えたという。

現在の青木堰(当時の場所より10mほど上流に移動している、著者撮影)
  • 本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で1ヵ月遅れで転載させていただいております。

  • 次回は11月29日更新予定です。