【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #38
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【足尾銅山】
第四章 緑の力で国を支える (8)
足尾銅山鉱毒事件
明治日本の急速な経済発展は、社会に大きなひずみをもたらしはじめていた。
その一つが公害問題である。ほとんど規制のなかった当時、工場による空気汚染や河川汚染が進んだが、殖産興業を優先する政府は目をつむる傾向があった。
だが、ついに無視し得ない事態が出来する。それがわが国の歴史上最初の公害問題とされる足尾銅山鉱毒事件であった。
一七世紀後半から一八世紀前半まで、日本は銅の産出量世界一を誇っていた。中でも現在の栃木県日光市に位置する足尾銅山は豊富な生産量を誇り、江戸城や上野寛永寺、芝の増上寺の銅拭きの瓦にも足尾産の銅が使われていた。
さすがに明治初期には産出量が減り、閉山寸前となっていたが、その足尾銅山を再興したのが古河市兵衛だった。
三井・三菱・住友・安田・大倉に継ぐ古河財閥の創始者で、現在も古河機械金属、古河電気工業、富士通、富士電機といった企業を中心に、古河グループとして存続している。
粘り強い調査によって、古河は銅の含有量豊富な新鉱脈を発見。再び採掘量を増やすことに成功する。
銅山の鉱毒については古くから知られており、古河も対策を取らなかったわけではない。むしろ積極的に煙を分散させる工夫などを施したが、それでも山が賑わうに従って木々は枯れ、渡良瀬川の鮎の大量死が発生していった。山の木が枯れると洪水が頻発し、水が引いてからも鉱毒で農作物が育たない。
吾妻村(現在の佐野市)の村長は県知事に操業停止を訴えた。
最初に調査に乗り出したのは帝国大学農科大学の同僚で、農芸化学が専門だった古在由直助教授と大学を卒業したばかりの長岡宗好(ながおかしゅうこう)(後の東京帝国大学農科大学教授)だった。彼らは被害の原因は銅の化合物であると指摘し、鉱毒に汚染されていない深い土を掘り起こし、石灰を多用して酸性を中和するよう指導した。
古河側は調査結果を踏まえて住民との交渉に応じ、賠償金も支払われたが、事件は解決に向かわなかった。
古河側は鉱山学者の意見を聞いて、ダムを造って鉱毒を沈殿させる調整池を作ろうとしたが、住民は洪水の際に堆積した廃石が押し流されることが問題の主因であると主張して対立。運悪く、調整池が完成直前の明治二九年(一八九六)の七月と九月、連続して大洪水が発生し、廃石流出による被害が出たことから住民の不満は爆発する。
示談から操業停止へ再び住民の気持ちは傾き、衆議院議員だった田中正造がこの問題を国会で盛んに取り上げはじめたのもこの頃であった。
政府も動き出す。
明治三〇年(一八九七)三月、榎本武揚(えのもとたけあき)が現地を視察。あまりの惨状に衝撃を受け、責任を取って農商務大臣を辞任。外務大臣の大隈重信が兼任することになった。
早速、大隈は足尾鉱山鉱毒事件調査委員会を設置。奇遇にも、メンバーには静六と親しい顔ぶれがそろった。農科大学からは志賀泰山教授、後藤新平は内務省衛生局長として、坪井次郎は帝国大学医科大学助教授として委員に列した。
委員会の結論として古河側に出されたのは、徹底的な鉱毒防止工事であった。
ところが予防工事が完成する直前の明治三〇年九月、大雨で砂防工事の一部が決壊し、再び鉱毒が下流の田畑を汚染してしまう。そこで古河は一番被害の大きい松木(まつぎ)村の住民に、慰労金を払って移住してもらうことにした。
だが運命は苛酷だった。
翌明治三一年(一八九八)九月にも大雨で貯水池があふれ、その翌年も洪水が発生。状況は一向に改善されなかったのだ。
明治三四年(一九〇一)一二月、田中正造は意を決して天皇に直訴する。国会議員を辞してこの運動に打ち込んでいた彼は最後の手段に訴えたのである。
このことは日本中に衝撃を与え、明治三五年(一九〇二)三月、再び政府は鉱毒調査に乗りだした。
ここでついに静六の出番となるのである。
実務トップである筆頭の委員に静六が指名され、農科大学からはすでに調査経験のある古在吉直教授が加わった。今回は理科大学からも工科大学からも助教授ではなく教授が参加し、ベストメンバーがそろっていたと言っていい。
静六は営林技師の村田重治と現地に入った。
(これは…)
聞きしにまさる荒廃ぶりである。静六は調査書の中で、〝血肉全く剥脱して岩骨の露出を来せる〟という、いささか文学的な表現を用いている。
静六は詳細な観察により、煙害に着目した。廃石の流出を仮に止められても煙害は残るからである。実際、現在では足尾銅山鉱毒事件の被害が拡大した原因は二酸化硫黄などの有毒ガスによるものとされており、静六の推論が正しかったことを示している。
煙害を防ぐ技術は当時はない。松木村に隣接する久蔵(くぞう)村、仁田元(にたもと)村の村民にも慰労金を払って移住してもらい、廃村とするほかなかった。
(問題は足尾だけではあるまい…)
静六は他の銅山にも足を向けた。明治三六年五月に藤田組の小坂銅山、一〇月に住友の別子銅山に関しても調査を行っている。
果たして静六の推測通りであった。
当時の新聞『萬朝報』は、実は別子銅山の鉱毒は小坂銅山の半分くらい、足尾銅山の鉱毒はさらに別子銅山より少ないと指摘している。
公害問題の解決にはなお長い年月を必要としたが、調査にあたった静六の中に〝公害に強い樹木〟という着眼が生まれ、研究が進んだ。
そしてそれが、明治神宮の森建設や大都市の街路樹選定に結実していくのである。
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