【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #28
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第二八回 一円相開眼
丁稚を大久保邸に行かせている間に金次郎は情報収集をし、照胤(しょういん)と言う僧に修行をお願いすることにした。成田山新勝寺中興八世として知られる名僧である。金次郎より一二歳最年長で、当時は五三歳であった。
金次郎の話しぶりから、照胤は彼が精神的に相当参っていることを理解した。そこでまずは平穏な精神状態に戻すべく断食修行を勧めた。
一日や二日ではない、なんとここから二一日間の断食修行がはじまったのだ。
初めの七日間で徐々に食事の量を減らしていき、中の七日間は全く食を絶つ。そして終わりの七日間で、また徐々に食事の量を増やしていき平常に戻すのである。今でも成田山の山門の横には金次郎が籠(こ)もったという参籠(さんろう)堂と水行堂が現存している。
成田山新勝寺の本尊である不動尊は心の迷いや煩悩を取り除き、万民を救済するため忿怒(ふんぬ)の形相である。右手に握っている利剣は「悟りの智慧」を象徴し、心の迷いを断ち切り、左手の羂索(けんさく)の縄で煩悩を縛って封じ、我々を正しい教えの道へと導いてくれるのだ。それは金次郎にとって自分が目指すべき理想の姿であったろう。
初めの減食の七日間が終わり、絶食の七日間に入った。最初の三日ほどは少し空腹感を覚えたが、もともと食欲も湧かないほど疲れきっていたので、苦にはならなかった。仏典を読んだりして日々を過ごすうち、ボロボロになっていた心が少しずつ修復され、精神が浄化されていくような心持ちがした。
そして彼は断食の間、これまでの失敗を反省し、今後どうすればいいかを考え続けた。
金次郎が成田山で悟ったとされるものに「一円相(観)」がある。
そもそも仏教の世界には自他合一という考えがある。自分と他者も一体。天地はみな一体だという教えだ。
考えてみれば金次郎は、これまで自分と他者を完全に峻別していた。桜町仕法が自分の思い通りに行かないことを領民や豊田のせいにしてとがめもした。だから反発を受けた。自分が正しく相手に非があるという自分中心の考え方はすなわち「半円の見(けん)」にすぎない。自分のプライドを捨て相手の立場に立って考えれば反発も招かない。簡単に言えば、〝己を捨てる〟ことこそが「一円の見」だというわけだ。
(不動明王のお姿から学んだ「不動心」と「一円相」を胸にこれからの人生を歩んでいこう)
この二一日間の断食修行で、金次郎は生まれ変わった思いがした。
行方不明だった金次郎が成田山にいるとわかって藩の重役たちはほっと胸をなで下ろした。厳罰に処さなかったのは、自分たちにも非があると誰もが感じていたからであろう。彼が自分の身を顧みず桜町領のために奔走していたことは否定できない事実だからだ。
仕方ないので病身ながら横山周平を二月一八日に再度赴任させていた。この時、無理したのが横山の寿命を短くしたのかもしれない。
「二宮なしで桜町の復興は不可能だ。何としても戻ってもらわねば」
家老たちが金次郎を呼び戻す方法について苦慮している頃、桜町から再び歎願書が出された。今度は二宮派の嘆願書だ。
代表の一四名が上京し、金次郎による桜町仕法の復活と代官・役人の更迭を領主宇津釩之助(うづはんのすけ)に願い出たのだ。金次郎の仕法に賛成していた名主が反対派の名主を説得した結果だった。罰せられるかもしれない危険を冒しての勇敢な行動だった。
結局、申し出を聞き届けるので帰村するようにとの寛大な沙汰を下り、豊田は解任されて小田原へ召還され、桜町仕法の担当(仕法取扱役)として服部十郎兵衛が新たに選任された。二宮派の全面勝利である。
藩主の使いの者がすぐに江戸から成田に向かい、藩の決定を金次郎に伝えた。金次郎は照胤に丁重に礼を述べ、桜町に戻る支度を始めた。
実は照胤はこの頃から腹痛を訴え、三ヵ月後にはこの世を去っている。稀代の名僧の最晩年にその謦咳(けいがい)に接することができたのは大変な幸運であった。
文政一二(一八二九)年四月八日、金次郎は再び桜町に戻ってきた。桜町三村の農民一二五名が出迎えにいくという熱烈な歓迎ぶりであった。
戻ってきた金次郎は驚くべきことを耳にした。
夫が成田不動尊で断食行を行っていることを知った妻波(なみ)は、その達成を祈り、家で「立ち行」をはじめたというのだ。断食行と同じ二一日間横にならず、座りもせず、立ちずくめで暮らすのだ。寝るときも立って寝た。
(なんということを…)
これを聞いた金次郎は、波に心から感謝した。彼女の思いになんとしても応えねばならない。仕事で返すと心に誓った。
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。
次回は10月18日更新予定です。