【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #15
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第一五回 服部家の家政立て直し
五常講は世界最初の協同組合、信用組合であるとの指摘もある。
実際、日本では後の明治時代になって「産業組合法」が制定されるが、その際、政府が参考にしたのは、金次郎の「五常講」とドイツの「救済貸付組合」だったと言われている。
中でも堀之内村の倉蔵(くらぞう)という使用人仲間は金次郎に心底惚れ込み、生活の収支一切はもちろん、自分の借財返済まで託してきた。そこまで親密になったこともあり、後に金次郎は彼の妹のきのと結婚することになる。
お節介ではあっても行動することで、彼の運命は大きく動き始めるのである。
金次郎が服部家の若党になって三年ほどが経った。彼が様々な工夫をして使用人仲間の心をつかんでいるという話は、家中でも評判になっている。
実は経済的に困窮していたのは使用人だけではなかったのだ。服部家は先代以来借金がかさみ、家計は火の車だった。長男の清兵衛まで五常講の世話になり、こっそり四両二分を借りている。用人の関谷もだ。みな苦しかったのである。
元々服部家は前述の通り知行は一二〇〇石であり、一〇〇石に対し一〇八俵の俸禄米を給付されることになっていた。本来なら一二九六俵の年収になるべきところ、金次郎が来た頃は三分の一の四〇八俵しか支給されていなかったというからひどい話だ。
小田原藩ではこれを〝減米〟と呼んでいた。
貨幣経済の進行により、農民が換金性の高い商品作物や養蚕に力を入れ始めたのも、相変わらず年貢を米中心にしていた武士階級には好ましからざる事態だった。おまけに小田原藩の場合、酒匂(さかわ)川流域の洪水の影響もあり、収穫高が伸び悩むのは当然の成り行きだったのである。
「家政の立て直しを、その二宮とやらに任せてみては」
という周囲の助言により、ある日、十郎兵衛は金次郎を呼び出した。
「お前のお陰で使用人たちが最近目に見えて元気になっておる。そなたは自分の家も再興したそうじゃな」
「特別なことをしたわけではございません。『入るを量って出るを制す』、ただこの一点にございます」
「『入るを量って出るを制す』とな」
「はい。お給金をなるべく使わないよう節約し、余ったお金で田畑を買い増してきました。田はすべて小作に出し、小作料でまた田畑を買い増して家を再興させたのでございます」
五常講などという新奇な策を考えつくのだから、さぞ目から鼻に抜けるような才子なのだろうと思っていたら、つまるところは地道な努力の積み重ね。だが彼の中にある強い意志と確固たる信念を感じた。
(この者なら信用しても良さそうじゃ)
十郎兵衛は正式に家政の立て直しを依頼した。
「では僭越ながら、少し奥向きを調べさせていただきます」
翌日から金次郎は服部家の蔵に籠もり、ほこりをかぶった帳面や証文の類いをひっぱりだしてきて現状把握に乗り出した。
調査は一〇日間に及んだ。結果、負債総額は一八八両(現在のお金に換算すると約五六四〇万円)にのぼることが判明する。容易ならざる事態だ。
収入と支出の内訳も調べた。
四〇八俵の年収から、家族と使用人の食事、菩提寺(ぼだいじ)への遣(つか)わし米といった、米のままで消費するものを除くと二九一俵二斗三升残ることがわかった。当時は、残りの米を米相場に従って現金化して普段の支払いに充てる。これが一三二両二分二三七文になっていた。
まさに『入るを量って出るを制す』で、収入に応じて支出を切りつめていくしかないわけだが、一つ一つの支出項目を調べていくとそれなりの理由がある。倹約する項目を選び出すのも工夫がいった。収入を増やす工夫も同時に考え、屋敷内の山林からとれる果樹を売った場合の収入まで算定した。
そうした結果をもとに、金次郎は服部家の借財を五年半で完済する計画(「御家政御取直趣法帳(おんかせいおんとりなおししゅほうちょう)」、趣法とは手段や方法のこと)を作成して提出する。文化一二(一八一五)年、満二八歳の時のことであった。
これで自分の仕事は終わったと考えた金次郎は、暇をもらって自宅に戻った。
服部家では給金以上の仕事をした。彼の目的はあくまでも二宮家再興である。不在の間の夫役は弟の友吉に銭を送って代わりにやってもらったりもしていたが、いつまでも家を空けておく訳にもいかなかった。
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。
次回は7月19日更新予定です。