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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #35

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永遠の森35

                      
第四章 緑の力で国を支える (5)
わが国初の大学演習林(後編)

所有権の引き継ぎ事務からはじまって、山林の維持管理の一切を請け負うと決めた静六は、明治二八年(一八九五)四月四日、植林に着手した。
授業の一環として、農科大学林学科の二年生(本科・乙科)二〇数名を引き連れ、六日間にわたる〝造林実習〟に向かったのだ。
無償で譲られた土地には萱(かや)が人の背丈ほどの高さに茂る原野が含まれていた。これを周辺のような豊かな森に変えていこうというのである。腕が鳴った。
演習林に宿泊設備はないが、清澄寺があるから周辺に旅館はたくさんある。静六は学生と一緒にふもとの旅館に泊まって明日に備えた。

翌日は朝六時に起床。支度が出来たのを確認して声をかけた。
「さあ出発だ!」
各々鍬や鎌を携え、学生たちは首に白手ぬぐいを巻いた角帽制服姿で山道を進んでいった。さすがに彼らだけでは心許なく、何人か現地の労働者も調達している。
静六は時間を無駄にしない。山道を歩きながら講義をする。そうするうち現地に到着した。
早速、師弟ともに完全な肉体労働者と化して雑草を掘り返し、穴を掘り、用意していた苗を植えていった。ところが帝大生は、勉強はできるが体力に乏しい。幼い頃から草刈りや畑仕事をしていた静六とは身体のつくりが違うのだ。
三日目ともなると、疲れ切って弱音を吐き始めた。
「先生、我々だけではとても無理です。もう少し手助けしてくださる方を増やしていただけませんか?」

だが静六は頑として承知しない。逆に厳しい言葉で彼らを叱咤した。
「東京農林学校以来、いまだかつて行われたことのなかった造林実習だ。困難なものとなることは当然予想していた。だが林学教育は本来技術が中心なのだ。造林はその基本であり、この苦労を忍ぶことができない者は他者をも使役できず、林学者にも適さない。我々の仲間とは到底言えない」
その言葉に学生たちは奮起した。自分たちが日本の造林学のパイオニアなのだという自覚が彼らに力を与えたのだ。彼らは最後の力を振り絞って、残り三日間の実習をやりとげた。
さすがに最終日は彼らをねぎらうことにした。
荷造りを終えた後、みなで海岸におりていった。今のように漁業権の厳しくない時代だ。素潜りの得意な者がアワビやサザエを山のように獲り、今で言うバーベキューを楽しんだ。
酒も入り、めいめい詩吟や剣舞などの余興が披露されていく。海上には遠く漁火(いさりび)も見える。山の上に皓々(こうこう)と輝く月明かりの中、どの顔も充実感で輝いていた。

その後しばらく、この清澄での〝造林実習〟は毎春恒例となり、長い時は三週間から四週間もの間、連日植樹造林を行った。
それには理由があった。実は造林が必ずしも順調に進んでいなかったのだ。
駒場で育てた苗木を東京港の霊岸島まで運び、そこから船で千葉へ送るのだが、どうしても潮風に当たる。そのため現地で植林した苗木はすでに衰弱していて大部分が枯れてしまった。
清澄寺参詣の人々が、
「帝大の先生が植えた苗木はよう枯れるのぉ」
と言っているという噂が静六の耳に届き、悔しくて悔しくて、人通りのない早朝、道から見える枯れた苗木を抜いて歩いたりもした。
その後、陸路輸送に切り替えたが、今度は輸送に時間がかかる。やはり途中で苗木が弱り、枯れるものが多かった。
何度も〝実習〟が必要だったのはそのためだったのだ。当然静六も同行する。通算すると五〇回も清澄に通うことになった。独力で維持すると見得を切った意地がそうしたのである。

それでもしばらくすると、茫々たる原野はやがて緑濃い新林地となっていった。
植林した面積は約一三・二ヘクタールに達し、スギが主に施業林として三万七〇〇〇余本、林内防火線用にクヌギが一八〇〇余本、瘠地(せきち)にはマツが六〇〇〇本、見本林としてシラカバ、イチョウ、ケヤキ、カツラ、アオギリ等、播種造林にはアカマツ、クロマツ、ヒノキ、サワラ、ヒバ等が植えられた。大学演習林の嚆矢(こうし)である清澄の演習林は、こうして軌道に乗ったのである。
その後、清澄は千葉演習林と呼ばれて大学演習林の代名詞となり、浅間山は我が国林学のメッカとなる。静六のもとで学んだ林学科の卒業生たちは、現場を知る貴重な即戦力として引く手数多となっていった。

千葉演習林のその後についてである。
当初反対意見が出たように、確かに演習林の管理には多額の費用を要したが、やがて成長した間伐材の払い下げによって多大な収益が出ることに静六は気づいていた。
だが彼は巧妙だった。いざという時に備え、演習林の維持費程度にしか間伐をしなかったのだ。
そして大正九年(一九二一)、同僚の農学部教授古在由直が総長に就任し、かねて懸案事項であった満六〇歳停年制実施と退職年金制度の財源をどうするかという大問題が出てきたとき、
「それは演習林の間伐材払い下げの収入でまかなって見せましょう」
と胸を張った。
実際、演習林は年間数千万円(数百億円)という莫大な利益をもたらし、大正一一年(一九二三)三月、停年制は無事実施されるのである。
当初の思惑通り、演習林はお荷物どころか〝大学の宝〟になったというわけだ。

その後、千葉演習林は日本森林学会から第一回選定で林業遺産に選ばれ、創設百周年の際には「演習林発祥の地」という石碑が建てられている。
静六たちが植えたものの中でも、吉田試験地と呼ばれる場所のスギは一〇〇年にわたって全木調査が継続され、地球温暖化における炭素固定の基礎数値を測定する上で貴重なデータを提供した。そして国内大学としては初めて、二〇〇七年度から二〇〇九年度にわたって行われた間伐に対し、平成二三年(二〇一一)、五〇〇トンのCO2吸収量の認定を受けた。
現在、東京大学は「サステイナブルキャンパスプロジェクト」の一環として低炭素キャンパスの実現に取り組んでいるが、大学演習林はそこでも〝大学の宝〟として大きな役割を果たしているのである。

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