【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #41
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【第四代台湾総督 児玉源太郎】
第四章 緑の力で国を支える (11)
後藤新平のその後
ミュンヘン留学時代、さんざ振り回された後藤新平のその後についてである。
静六が帰国して二年ほど経った頃、後藤も日本に帰ってきた。風の噂では、見事ドクトルの称号を手に入れての凱旋帰国だという。
(ろくに授業もわからなかったあの後藤が一体どうやって?)
ともあれ、早速顔を見にいくことにした。
よくよく聞いてみると、後藤が取ったのはドクトル・エコノミーではなく医学博士にあたるドクトル・メディチーネであった。
ドクトル・メディチーネは研究論文を出しさえすれば、口頭試験もなく、比較的簡単に学位がもらえる。要領のいい後藤は、留学前に日本で出版していた『国家衛生原理』の内容を要約し、それを現地のドイツ人に翻訳してもらって学位論文として提出したのだ。
後ろめたかったのか、ドクトルを取得したことをしばらく伏せていたという。
「ずいぶん大きなことも言ったが、君のクソ勉強にはかなわなかったよ」
苦笑いを浮かべながら、そんな殊勝なことを口にした。
ドイツから帰った後藤は、長与の後任として内務省衛生局長に就任していた。人もうらやむ大出世だ。一時は長与の推薦で、慶應義塾の塾長になる話さえあった。
ここまで長与がしてくれたのには理由があった。
後藤はドイツ留学の際、特別なミッションを与えられていたのだ。
長与の長男の称吉は、一八歳の若さで森鴎外らとともにドイツ留学したはいいが、ドイツ女性と同棲して勉強もはかどらず、なかなか帰国しようとしなかった。
「帰国するよう説得してくれないか」
ほとほと困っていた長与は、腹心である後藤に密命を託していたのだ。
要領のいい後藤はドイツについて間もなく、それこそドイツ語もままならなかったにもかかわらず、なんと筆談でその女性と交渉して別れさせ、無事称吉に学位を取らせて帰国させることに成功する。
長与が喜んだのはいうまでもない。これが大抜擢の裏にあったのだ。
ところが好事魔多し。当時、世間を騒がせていた相馬事件に巻き込まれる。
相馬藩の旧藩主相馬誠胤は精神を病み、元家臣たちによって座敷牢に入れられ当主の座を追われた。これに憤った旧藩士の錦織剛清が、これは相馬家の家督乗っ取りの陰謀だと主張し、世間を味方につけて大きな騒動となっていたのだ。
後藤は相馬誠胤が急死した際、これは毒殺だとする錦織の肩を持ってしまい、遺体解剖の結果、毒殺の証拠が出なかったことから逆に誣告(ぶこく)罪(虚偽の罪で告訴すること)で訴えられ、鍛冶橋の監獄に入れられるはめとなった。
衛生局長も当然辞任である。長与は後藤を見限り、もうこれで後藤は終わったとみな距離を取り始めた。
さかりをば見る人多し散る花の
跡を訪ふこそ情なりけれ
訓戒和歌集
裁判の際に後藤新平が引用した和歌である。
この時、彼を見捨てず支えたのが、北里柴三郎、金杉英五郎(東京慈恵医大初代学長)、そして本多静六であった。
後藤は借金まみれになっており、弁護士をつけることもできない。そこで静六はみなと語らって金を集め、差し入れをしたり弁護士を頼んだりしてやった。
静六が北里と連れだって牢内に差し入れを持って行くと、後藤は意外と元気そうだったという。
「おれは全くやましいところがないと信じているから、入獄した晩から高いびきをかいて眠っていたよ」
しばらくして無事保釈された後藤は、すぐ再び世に出るチャンスを得る。
陸軍軍医のトップだった石黒忠悳(いしぐろただのり)陸軍省医務局長が、当時陸軍次官だった児玉源太郎に、日清戦争後の大量の帰還兵二三万人の防疫担当者として後藤を推薦してくれたのだ。
日清戦争の戦場ではコレラや赤痢が蔓延しており、そのまま帰国されては日本中に感染症が広まってしまう。それを水際で食い止めるという、難しいが大切な役目だった。
後藤は北里に協力を依頼した。
北里は蒸気を用いて一度に大量の消毒ができる施設を考案。これが驚異的な効果を発揮して、無事難しい使命を果たすことができた。
後藤はこの功績により、晴れて衛生局長に復職することができた。
そして明治二九年(一八九六)、児玉源太郎が第四代台湾総督に就任すると、防疫で高い評価を得た後藤は、ナンバー2のポストである民政局長(後に民政長官)に抜擢される。
当時台湾は日清戦争の結果獲得した日本最初の植民地だった。乃木希典総督は綱紀粛正を推進しすぎて部下の反発を買い、その後を任されたのが児玉だったのだ。
後藤は専売局には中村是公(後の満鉄総裁)、殖産局には新渡戸稲造を招集した。
そして当然のことのように、静六にも協力を依頼してきた。
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