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【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #31

二宮尊徳はどんな人か。かう聞かれて、尊徳のことをまるで知らない人が日本人にあったら、日本人の恥だと思ふ。それ以上、世界の人が二宮尊徳の名をまだ十分に知らないのは、我らの恥だと思ふ。

武者小路実篤

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第三一回 三才報徳金毛録

『三才報徳金毛録』には彼独特の世界観が円の図をもって体系的に示され、最後に報徳仕法実施上の要点が記されている。
思想爆発の集大成だけあって極めて難解なものであった。
金次郎は「一円相」について、「混沌」→「開闢(かいびゃく)」→「輪廻(りんね)」の順に論理を展開している。
まず「混沌」だが、それはまさに読んで字の如く、何ものでもない「空」の状態であり、すべての出発点である「大極」である。
ちなみに金次郎は中国の陰陽思想の説く「太極」という字を敢えて用いず「大極」と記しているのは、思想が借り物ではないオリジナルであることを示すためではないかと筆者は考える。ただ無から有が生まれていく根源という意味では同じものだと考えていいだろう。
次に「開闢」である。
元々一円一元の「混沌」であったが、そこから天地が「開闢」し人道界がはじまると彼は説いた。苔が生え、竹木が生じ、虫魚が生じ、鳥獣生じ、人間生ずというわけだ。人道界が成立すると人は煩悩に悩まされ、その克服に苦悩することになる。
金次郎は「仏これを五戒という」とし、儒教からは「仁義礼智信」を採り、仏教からは「不殺生戒・不偸盗(ちゅうとう)戒・不邪淫(じゃいん)戒・不妄語戒・不飲酒戒」の五戒を採った。
最後に「輪廻」である。
輪廻循環は自然界のみならず人道界でも避けられない。自然界では「春夏秋冬」「朝昼夕夜」「成花実種」と循環するものが人道界では「生体死気」を繰り返す。
彼の道歌を借りるならばこうだ。

春の野に芽立つ草木をよく見れば さりぬる秋に実る種々

この道歌は、金次郎の側近や小田原藩士によって多数書写され、数多い金次郎の道歌の中でも最も有名なものとなった。
金次郎の思想の多くにこの輪廻循環が登場するが、それは現代風に言えばサステナビリティの追求ということになるであろう。

最後に結論として、永続的な窮民救済をなすためには二つの方法があることを示した。
貧者に金銭を与えることは一時的な救済にすぎない。永続的な救済方法としては、一つには貧者たる農民に自覚を求め、自活するための道を見出すよう促すこと。もう一つは為政者や指導者に率先垂範と仁徳を求め、困民の救済にあたらせることである。
金次郎は農民たちに「約富奢貧輪廻図(やくふしゃひんりんねず)」を示した。
現在は貧だが、日々節約すれば富になる。しかし富になると奢りの気持ちが生じて贅沢な生活が始まる。そうすると元の貧に戻る。そのほか「徳勤怠失輪廻図(とくきんたいしつりんねず)」も同様の趣旨であった。これらは永続してはならない輪廻図であり、金次郎の著作『万物発言集』には「財なきにあらず、勤なきが故なり」と記されている。
指導者には「天命治世輪廻図(てんめいちせいりんねず)」を示した。
指導者が仁徳に基づいて経営・指導を行えば、民は仕事に励み、田は開かれ、民は恵みを受け、下は治まり、法は守られ、刑罰も省かれ、臣は信じられ、民は集まり、国は安寧となり豊かになり、子孫も繁栄するという好循環が生まれるというわけだ。
金次郎は一円相に関するものだけでも、『三才報徳金毛録』のほか、『大円鏡』『空仁二名論稿』『百種輪廻鏡』『三世観通悟道伝』『農家大道鏡』『天命七元図』と膨大な量の著作を書き残しているが、やはり主著と言えば『三才報徳金毛録』ということになる。
そして天保九(一八三八)年に著した『天命七元図』を最後に、以降は仕法に専念していくのである。

「天地人三才」の大切さに関して、『二宮先生語録』にはこう記されている。

〈数学は九九八十一に尽きる。暦学は目盛りを立て影を測って時節を定めることに尽きる。仏道は色即是空、空即是色というに尽きる。儒道は、おのれを修めて百姓を安んずるに尽きる。天道とは、四季がめぐり、万物を生滅することに尽きる。人道とは、衣食住をととのえることに尽きる。わが道はといえば、分度を守って余財を推しゆずり、荒地をひらき民を救い、天地人三才の徳に報いることに尽きるのだ〉

『二宮先生語録』斎藤高行原著・佐々井典比古訳注

彼の教えを報徳教と呼ぶこともあるが、決して宗教ではない。むしろ彼は宗教より上のものだと胸を張っている。

〈仏教家は施餓鬼(せがき)(筆者注:飢えや渇きに苦しむ死者にお供えをして供養すること)を功徳(くどく)の極致としている。しかし、わが法には及ばない。なぜならば、施しを受ける者は、いたずらに人の施しを待つばかりで、人に施そうという気持がないのだ。わが法はこれと異なる。投票によって善人を挙げ、その荒地をひらき、借金を償い、質入れした田を受けもどし、その家産を復興してやる。そこで遊惰(ゆうだ)は奮い起って精励となり、貧困は変じて富裕となり、悪人は化して善人となる。およそ、そのきらうものを除き去って好むものを与えるから、人々はその徳に報いる心を生ずる。少しでも徳に報いて物や金を推し譲れば、それがすなわち多くの人を救う資金となる。これこそ凡夫を導いて菩薩の位に至らしめる法なのだ。
私は幼いときからこれを行って、今日に至った。「常施餓鬼」とも言えるだろう。その功徳は、仏教家の施餓鬼などと比べものにならない。これは、神儒仏の三道を推し拡めて創立したところの法であって、世の中にこの法に匹敵するものがどこにあろうか〉

前掲書

ただこの『三才報徳金毛録』は出版されて世に広く流通したものではない。金次郎と古くからのつきあいである鵜沢作右衛門など一部の小田原藩士に贈られたほか、門弟が故郷に帰る際に特別に書写を許され、個人的に読むことを許されていたものであった(『二宮尊徳全集第三』)。

  • 本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。

  • 次回は11月8日更新予定です。