【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #10
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第一〇回 禁じられた夜の読書
江戸時代というのは互助制度のしっかりした時代だった。
「五人組」という隣保(りんぽ)があり、相互扶助と治安維持に力を発揮した。この組織は戦時中、「隣組」として復活し、現在の自治会や民生委員のルーツとなっている。
金次郎のところのように困窮した者は、この五人組と親戚たちが相談して今後の方針を決める習わしだった。
話し合いの結果、幼い二人の弟は母の実家に預かってもらうことになった。
母に焼香もさせてくれず死のきっかけともなったあの川久保家だ。そこに預けざるを得ないのは忸怩(じくじ)たるものがあったが、数え一五歳でようやく成年になったばかりの金次郎にとって年長者の決定に逆らうすべなどない。
そして彼自身は伯父万兵衛の家に身を寄せることとなった。家財道具、衣類などもすべて売り払い、自宅は西栢山の人が買ってそちらに移築された。それらの売却代金は万兵衛に運用(利回し)を頼んだ。
万兵衛家は生家のすぐ南隣である。父親の実家でもあり、一番関係の深い親戚だ。
彼が兄弟三人をすべて引き取ってくれれば離ればなれにならずにすんだはずだが、万兵衛には無理だったのだ。妻を亡くした直後で、彼の田畑もその多くが砂礫地(されきち)になっていたからだ。
金次郎の家の田畑もあわせて収穫を増やしていけば、金次郎一人増えてもなんとか養っていけるという算段であった。
こうして、伯父といとこたちとの生活が始まる。
いつか生家を立て直し、弟たちを呼んで一緒に暮らすことが金次郎の目標となった。万兵衛もまた、折を見て利右衛門の家を継がせるつもりだった。
耕作以外に、毎朝毎晩の戸の開け閉め、水汲み、庭掃除、夜の行燈(あんどん)の用意など、やらねばならないことは山ほどあった。
それでも金次郎は、細々と学問を続けていた。それが心の支えだったと言っていい。
――行いて余力あれば、すなわち以て文を学ぶ。
後に『論語』学而(がくじ)編のこの一節を読んで思わず苦笑したが、昼夜こき使われている金次郎にとって〝余力〟を捻出するのは至難の業だった。
お昼の弁当の時間でも、小作人たちが湯をわかしてお茶を入れ、ゆっくり食べるのをよそ目に、金次郎は冷飯に水をかけてかき込み、あいた時間で本を開いた。柴刈りの行き帰りには、今まで通り暗唱することを忘れなかった。
夜も寝る時間を節約し、行燈(あんどん)の明かりで書を読んだ。
行燈は一ワット強の明るさでしかないが、それでも油一升で米二升が買えたというほど油は貴重なものだ。
そのため万兵衛は、金次郎が夜、本を読むのを嫌った。行燈は、暗くなってから農機具の手入れや草鞋編みなどをするためのものであり、本を読むなどというのは無駄でしかないというのである。
「早く寝ろ!」
そう言って叱られるのが常であった。
万兵衛は、あのお人好しだった利右衛門の兄である。決して悪い人ではない。
彼からすれば金次郎が早く一人前になるよう厳しく育てただけだろうが、それは父母を失って傷ついた金次郎にとって、ことのほか辛いものであった。
夜、行燈の明かりで本を読んでいるときの利右衛門は実に楽しそうで、自分も本が読めるようになってくると、父親の気持がよくわかった。それを禁じられるのは、自分の父親が否定されるようで何とも切なかった。
光が漏れないよう工夫もしたが、どうしても見つかってしまい、小言を食う。
諦めきれない金次郎は策を講じた。
享和三(一八〇三)年の秋、一六歳になったばかりの時、五勺(しゃく)(約九〇cc)ほどの菜種を分けてもらい、仙了(せんりょう)川の堤に接する砂地に蒔いたのだ。
それが育つのを見るのがどれほど楽しみであったかしれない。翌年の春、七升 (一二・六リットル) ほどの菜種を得ると小躍りするようにして、隣村の油商嘉右衛門(かえもん)のところで製油してもらった。
これで行燈の油は確保した。
万兵衛に事情を話し、
「お前の燈油で読むのであれば…」
と了解してもらったが、お互いなんとなく気まずい思いが残った。
(早くこの家から出ていこう)
そう決意を新たにするのだった。
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。
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