【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #09
前回はこちら↓
第九回 父に続き、母をも失う
金次郎は朝は暗いうちから早起きして田畑の世話をし、夜は草鞋(わらじ)作りをして一家四人の生計を支えようとした。だが父利右衛門のいなくなった穴を埋めるには至らない。
そのうち、食べるものにも事欠くようになっていった。
利右衛門が亡くなって三ヵ月ほどが過ぎ、享和元(一八〇一)年の正月がやってきた。年始には神楽(かぐら)が家々をまわることになっている。
その年も神楽の笛の音が近くまでやってきた。
「神楽が来たけど、一体どうすればいいのやら…」
母よしはもう弱り切っている。家中探してもびた一文ないからだ。
一〇〇文出すと神楽を舞うが、舞わせたくなければ一二文を渡して帰ってもらう決まりだ。それが神社の維持費にもなっていた。
明治になって政府が一町村一社の方針を出したことにより栢山(かやま)神社に統合されたが、金次郎の頃の東栢山には八乙女権現社、白髭社、稲荷社の三社があった。
前回述べたように、一両三〇万円換算だと、一両は四〇〇〇文だから一二文だと九〇〇円ほどになる。
だが当時の蕎麦は「二八蕎麦」といって一杯一六文が相場だったから、おそらく一二文というのは四〇〇~五〇〇円くらいの感覚だったはずだ。
「わずか一二文がないとは誰も信じてくれますまい。みな田に出かけて一人も家にいないふりをしてやりすごしましょう」
金次郎はそう言うと、しっかりと戸を閉じて息をひそめた。
間もなく神楽が来て戸口の外でお祝いの言葉を口にしたが、返事をせずにいると、そのうち笛の音は遠ざかっていった。
彼らはもう命をつなぐのがやっとの有様だったのである。
この翌年(享和二年)三月二四日、よしの父川久保太兵衛(たへえ)がこの世を去った。
よしは子どもたちを連れて川久保家へと向かったが、彼らの着物があまりにもみすぼらしいことに驚いた親戚たちから、
「あんたたちは葬式に出ないでおくれ!」
と言い渡された。
惨めなことこの上ない。愛する父親の葬式にも出られないなどということがあっていいものか。
よしは泣く泣く帰宅したが、よほどこたえたのだろう。葬式から帰るとどっと床についた。
「おっかさん、頼むから食べてください」
なけなしの米をかゆにして口元に持っていっても食べてくれない。完全に生きる気力を失ってしまっていたのだ。
金次郎たちの看病もむなしく、よしは一〇日ほどで息を引き取った。
享和二(一八〇二)年四月四日、満三四歳の若さだった。金次郎一四歳、友吉一一歳、富次郎二歳の時のことである。
一年半ほどの間に父に続いて母までなくしてしまったのだ。しかも二人の弟を残して。これほどの不幸があって良いものか。
だが運命はさらに苛酷な追い打ちをかけるのである。
残された田畑でなんとか弟たちを養っていこうと決意した彼は、親戚たちに手伝ってもらい、なんとか田植えをすることができた。
ところがそこから一ヵ月もしない閏(うるう)五月二九日(太陰暦の当時は、約三年に一度、閏月を加えて一年を一三ヵ月とし、季節のずれを調整した)の夜、またしても酒匂(さかわ)川が氾濫し、田植えの終わった田畑もろとも流し去り、最後の希望をも打ち砕いてしまうのだ。
二宮尊徳は後年、当時味わった度重なる不幸を振り返り、こう語っている。
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。
次回はこちら↓