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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #32

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永遠の森32


第四章 緑の力で国を支える (2)
山林王・土倉庄三郎(後編)

土倉は自分のノウハウを隠さず、むしろ積極的に世に広めようとした。
明治二三年(一八九〇)の第三回内国博覧会には長さ約六〇メートルもの筏の現物を出品。林業こそ富国強兵の鍵だと訴えた。
天竜川の治水に取り組んだ金原明善(きんぱらめいぜん)を指導したことでも知られる。
金原は安間(あんま)村(現在の浜松市)の名主だったが、氾濫を繰り返す天竜川への対策として堤防の強化を考え、土倉に頼んで現地まで指導にきてもらったのだ。
この時、土倉は金原にこう言っている。
「植林をすれば堤防が強化されるだけでなく、後年伐採して利益を出し、再び植林するという好循環を生む」
この言葉は、静六が目指した〝サステイナブルな林業〟の考え方そのものだ。そして留学帰りの静六もまた、土倉から学ぼうと吉野に赴いたというわけだ。

いきなり土倉は静六にこう言った。
「船にも西洋船と和船がありますが、西洋船の技術を和船に応用しようなどというのは机上の空論でしょう」
頭から冷水を浴びせられた格好だが、静六はあえて反論を控えた。彼もまた、ドイツの林学がそのまま日本に適用できないことにすでに気づいていたからだ。
ヨーロッパの大陸性気候では樹木の種類はさほど多くない。現在のドイツでは七二種類ほどとされているが、国土が南北に長く延び、島国で気候に多様性のある日本の場合、樹木だけで数百種、草を加えるとその一〇倍はある。
静六もドイツ林学を参考にしつつ、日本独自の林学を打ち立てねばならないと考えていたのだ。
土倉の指導の下、早速自ら鉈(なた)を手に間伐や枝打ちを行った。当然、学生時代に何度も実習してきたが、山林王の指導は格別だった。
後に静六は水源林に取り組むが、水源林の重要性に早くから着目していたのも土倉であった。山林と水は一体だというのが土倉の主張であり、話せば話すほど勉強になった。例の手帳が大活躍したことは想像に難くない。
初対面の時こそ厳しいことも口にしたが、帝国大学の助教授でありながら吉野の山奥まで教えを乞いにやってきた静六のことを土倉はかわいがってくれた。二六歳も離れているから親子のようなものである。
静六が東京に帰るという時、土倉はこう言った。
「先生が間伐された山は、この先も記念林として残しておきましょう」
山林王に〝先生〟などと呼ばれてなんとも気恥ずかしかったが、慈父のような優しさを感じた。

行くところ可ならざるはなしという活躍を続けた土倉だったが、人生、先に何があるか分からない。
隠居してからは、長男鶴松のすることに一切口を挟まなかった。それが裏目に出た。
偉大な父親を越えたいと背伸びをしたのだろう。土倉鶴松は海外事業や鉱山経営を含む五〇ものビジネスに進出し、そのことごとくで失敗してしまう(『森と近代日本を動かした男』田中敦夫著)。
さしもの土倉家も急速に没落していった。書画骨董を売るだけでは焼け石に水で、大部分の山林が差し押さえられてしまう。
山林王と呼ばれた土倉庄三郎は、大正六年(一九一七)七月一九日、失意のうちに七七年の生涯を閉じた。肝臓癌であった。
ちょうどその時、静六は新潟に出張中であったが、急ぎ弔意を表わした。土倉家の没落の噂はすでに聞いていたが、なんともやるせない思いだった。
静六が間伐し、記念林として残そうと言ってくれた山も、土倉の死後、容赦なく伐採されてしまった。

だが本多静六は、恩を忘れない人である。
三回忌がすぎた頃、彼は私費を投じ、土倉の顕彰碑を立てることを決断する。土倉翁の偉大なる業績を考えれば、小さな顕彰碑はふさわしくない。静六の構想は十分人を驚かせるものであった。
大滝村の土倉の屋敷からほど近い吉野川の川岸に鎧掛岩(よろいがけいわ)という岩壁がそそり立っていたが、そこに「土倉翁造林頌徳記念」と書いた磨崖碑を彫る計画を立てた。碑文の一文字が縦横約一・八メートル。深さは三六センチ、全長二三・六メートルという巨大なものである。
静六は字が不得意なので、言語学者で日本庭園協会の理事なども歴任した後藤朝太郎日本大学教授に揮毫をお願いした。

高さ三六メートルの足場が組まれ、一五〇人がかりで二五日間を要し、大正一〇年(一九二一)、土倉翁造林頌徳記念碑はついに完成する。
(私が志を継がせていただきます。どうかご安心を!)
在りし日の笑顔を思い出しながら、静六は決意を新たにしていた。

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