【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #40
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第40回 吉良八郎
天保の大飢饉に際し、金次郎は谷田部・茂木村27ヵ村に関し、その人口、必要な食糧について詳細に調査し、人口6332人、必要な食糧は1万1397石、収穫予想と貯蓄米合わせても592石が不足するという、実に綿密な数字を出した。
そして桜町領の物井村の人間に米麦の買い付けを依頼。
すでに高値になってはいたが、購入した米麦を茂木村に送付させている。
この際、金次郎は次のように書いている。
「身命を保つの要道(ようどう)、食物の尊き事は、およそそれ金銀珠玉を尊むに勝(まさ)れり」
つまり金次郎は、農業こそが人間界存立の根源であり、その恩徳は経済界全体を潤し、ひいては倫理道徳につながるものだと考えたのだ(『二宮金次郎正伝』二宮康裕著)。
谷田部藩の仕法は思わぬ副産物をもたらした。
元谷田部藩士で金次郎の26歳年下である吉良八郎(きらはちろう)という若者が、門人として加わったのだ。
実にできる男であった。
元の名を波田晃八郎(はたこうはちろう)という。
200石取りの家に生まれ、郡奉行をしていたこともある上級武士で、谷田部藩の仕法では金次郎を助けてくれていた。
ところが天保13(1842)年、仕法に関係する金銭問題に不正があったとして藩より追放処分を受けてしまうのだ。
彼の人となりをよく知っている金次郎は罪を憎んで人を憎まず、彼と妻子を青木村の館野家に住まわせ、青木村仕法に従事させる。
門人となったのを機に吉良八郎と改名。
その後、彼は金次郎に影のように寄り添い、報徳仕法の実践に尽力していった。
金次郎は晩年、宇都宮藩から堰(せき)の建設を頼まれた。
田川から宝木用水(新川)へ水を引き込み、下流の宇都宮の農村を潤すためである。
ところが工事を開始する矢先に金次郎は亡くなり、一旦中止になる。
だが彼の遺志を引き継いだ吉良八郎が工事を継続し、金次郎没後3年が経った安政6(1859)年、堰を完成させ、師の名前を取って二宮堰と名付けるのだ。
吉良八郎の活躍はそれだけにとどまらない。
宇都宮藩より鬼怒川沿岸の新田開発を依頼され、実に129町歩の荒地を開拓。
宇都宮市桑島町には今も吉良の記念碑が残されている。
吉良は終生師への感謝の気持ちを忘れなかった。
彼は今、桜町陣屋近くにある二宮家の墓のそばに、師と並んで眠っている。
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で1ヵ月遅れで転載させていただいております。
次回は1月24日更新予定です。