【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #39
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第39回 谷田部仕法
前回の訪問から半年も経っていない6月1日、再び使者として中村玄順が桜町陣屋を訪ねてきた。
上屋敷を全焼させた細川家の事情を知っている金次郎は、さすがにじっくりと話を聞いてやった。
飢饉に大火の影響が加わり藩の借財が増える一方であること、農村の荒廃の根本原因は谷田部と茂木の両方の村民のモラルの低下にあること等、玄順は藩の恥を隠すことなく洗いざらい話した。
「貴藩の窮状はよくわかりました。
ともあれ報徳仕法の基礎は、領主がしっかりと分限を決め、それをひたすら守る覚悟にある。
その覚悟のほどにつき、細川公に念を押してきていただきたい」
そう言って、最も肝心な点を再度確認させた。
帰藩後玄順はその旨報告し、全て金次郎に従うとの藩主の言質を得た。
こうしていつも通り、実態調査が始まった。
谷田部藩は玄順と優秀な藩士数人を桜町陣屋に派遣した。
金次郎は彼らにまずは帳面類の調査方法を習得させ、その上で谷田部藩に戻って徹底的に調査を行わせた。
すると貢租の収納量は150年ほど前の延宝期に比べ半分近くに減少し、逆に累積債務は13万両余に上っていることが判明した。
これは1年分の貢租をすべて借金の返済にあてても、元金だけしか返済できない額である。
このことを藩主や重役たちに報告したところ、今更のように「上下あげて驚き入った」という。
ここまでひどいとは誰も思っていなかったのだ。
天保5年10月17日、金次郎は具体的な分度案を示し、10年の仕法期間中は絶対これを守るよう命じた。
その上で、報徳金から1000両ほどを融通することを約束したが、それだけでは焼け石に水だ。
ここで金次郎は辣腕を振るう。
金を貸している札差(ふださし)たちと交渉し、負債総額の13万両のうち11万両の借金を棒引きにしてもらったのだ。
1人の商人とも会わず、手紙のやり取りだけで実現させたというから驚きだ。
残りの2万両については、報徳金の活用により荒れ地を開拓し、そこからの収入で年賦償還する計画を立てた。
金次郎も報徳金を使うことでリスクを負ったことと、13万両のうち2万両は返済するという条件に、札差たちは誠意を感じたのだ。
もともと札差は米を扱う商人である。
大名や旗本御家人たちから依頼される年貢米の現金化でしこたま儲けさせてもらっている。
加えて天保の大飢饉の後、大名や旗本御家人の財政は軒並み悪化し、彼らへの融資がもはや返済不能に陥っていることは10分認識していた。
13万両のうち2万両返ってくるなら御の字だと判断したのだ。
幕府はそもそも商人には無慈悲だ。
実際、天保の改革の一環として、天保14(1843)年、大名や旗本御家人に対する貸金の利息を無利子にするのは勿論、返済免除を督励する天保の棄捐(きえん)令を発出している。
要するに返済免除にせよというのだ。
さらに言えば、明治維新後、明治新政府は大名や旗本御家人に対する融資を全て無効としている。
そうした幕府や明治新政府の対応からすれば、金次郎の交渉は、よほど誠意あるものだったのである。
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で1ヵ月遅れで転載させていただいております。
次回は2025年1月17日更新予定です。