【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #38
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前回までのあらすじ
青木村仕法に取り組んだ金次郎は、壊れたままになっていた青木堰を奇想天外な工法によって改修。
ナスの味で飢饉の襲来を予見し、寒さに強いヒエを植えさせて被害を最小限にするなど、見事な経営手腕を見せていく。
村民も彼に心服し、大成功と思われていた青木村仕法だったが、最終的には領主の川副氏が分度を守らず竜頭蛇尾に終わってしまう。
領主に分度を守らせることの難しさを痛感した金次郎であった。
第38回 他藩への仕法の拡大
天保5(1834)年、先述したように金次郎は徒士(かち)格に昇進し、代表作となる『三才報徳金毛録』を執筆。
47歳になり、ますます気力充実していた。
前年からはじめた青木村仕法も大いに実績が上がっており、その勢いに乗って翌年(天保6年)着手したのが谷田部(やたべ)藩(現在の茨城県つくば市谷田部)の仕法であった。
谷田部藩は肥後熊本藩細川家の分家で1万6200石の小藩である。
青木村同様、金次郎とは特に関係がないが、きっかけを作ったのは中村元順(げんじゅん)という細川家の藩医であった。
中村玄順は芳賀郡中里村(現在の茨城県日立市)の出身で、江戸に医術の修行に出ていた時、物井村の岸右衛門という親戚から桜町仕法について話を聞く機会があった。
医術の心得があるのだから、その気になればある程度の収入を得ることもできるだろうに、借財に苦しんでいた玄順は、軽い気持ちで岸右衛門にこう話した。
「岸右衛門さん、二宮さんに報徳金の無利息貸付を頼んでもらえんだろうか?」
そもそも報徳金のなんたるかを理解していない手合いは、こういうことを口にしがちである。
無利息といいながら、家計を立て直した際には冥加金を余分に返済するのが報徳金だ。
貸し手の志と借り手の高いモラルによって成立する金融システムなのだ。
金次郎に心酔している岸右衛門は、まるで彼が乗り移ったかのように厳しい言葉を投げかけた。
「あなたが借財に苦しんでいるのは〝その身を富ますことしか念頭にない〟からだ。
だから世間の人々に慕われず、医業も不振なのだ」
玄順は返す言葉を持たなかった。
さらに岸右衛門はこう続けた。
「自分もかつては自分のことしか考えていなかった。
だが、二宮様に教えを受けるうち、周囲の人々の幸福を祈って推譲してこそ自分の家業も安泰になることを悟った。
今では至誠を胸に勤労に励み、神仏の加護に対する報徳のため、無給で二宮様の手足となって働いているのだ」
この話を聞いて、玄順は自分を恥ずかしく思うとともに、金次郎の仕法は本物だと確信した。
岸右衛門の話を聞いて心を入れ替えたのが功を奏したのだろう。
やがて玄順は細川家の藩医となり、藩主の家族の健康を支えるとともに、時には彼らの相談相手となった。
そして細川家の財政窮乏を知った彼は、若殿の興建(おきたつ)に、金次郎の報徳仕法について語って聞かせたのだ。
若殿と言ってもすでに数えで36。
藩主興徳(おきのり)に男子がなく、3名の養子を迎えたがいずれも早世ないし廃嫡され、興建が4人目の養子に迎えられていたのである。
谷田部藩は桜町領と近い。
興建は金次郎の報徳仕法に大いに興味を示し、金次郎への仕法の依頼を決めた。
こうして天保5(1834)年1月、玄順は桜町陣屋に金次郎を訪ねた。
例によって金次郎は簡単には受けない。
細川家の事情にも通じている彼は、
「興建様はご養子に来られたばかり。
まして4人目のご養子。
性急に家政改革を行って失敗し、また廃嫡ということになっては一大事。
慎重に時期を待つべきです」
と言って一旦帰らせた。
ところが、その翌月の2月7日、江戸の大火が起こった。
4000人を越える焼死者を出した大規模なもので、甲午(こうご)火事と呼ばれている。
谷田部藩の4433坪余の広大な上屋敷は、火元の神田佐久間町と目と鼻の先である神田柳原元誓願寺前(現在の1000代田区岩本町3丁目)にあったため、あわれ全焼してしまう。
これによって細川家の財政はさらに困窮の度を深めた。
結果として、早々に時は熟してしまったのである。
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で1ヵ月遅れで転載させていただいております。
次回は12月27日更新予定です。