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【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #37

二宮尊徳はどんな人か。かう聞かれて、尊徳のことをまるで知らない人が日本人にあったら、日本人の恥だと思ふ。それ以上、世界の人が二宮尊徳の名をまだ十分に知らないのは、我らの恥だと思ふ。

武者小路実篤

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第37回 青木仕法の結末 その2

悪いことは重なるものである。弘化3(1846)年には、川副家の江戸屋敷が火災で焼失。青木村には長屋門の再建資金として、135両の献納金が申し付けられた。これらを如何にすべきか相談しているところへ、領主の日光参詣金として、追加の献納金支払いを促す書状が届いた。
あまりに一方的な申し出だ。青木村の農民たちは再三にわたり善処を申し入れたが埒が明かず、遂に実力行使に出た。
弘化4(1847)年12月26日から29日までの4日間、村人たちは明神山に立て篭こもったのだ。参加した者は37名、名主や組頭などは不参加であったため、村を二分する騒動となった。
当時、金次郎は幕臣となり二宮尊徳と称していた頃であったが、ちょうど運よく来村し、山籠りの一部始終を聞かされた。
一揆は、要求が通ったとしても責任を取って首謀者が処刑されるのが当時のしきたりだが、尊徳は領主に処罰を行わないよう依頼し、一人の処罰者も出さずに解決された。

「百姓は生かさぬように殺さぬように」
という、徳川家康のものとして伝わっているこの言葉が江戸時代の基本政策だった。
金次郎はそれを変えようと試みたのだが、いくら理屈を説いても、理解者はごくひと握りにすぎなかった。
「君ありてのち君あるにあらず、民ありてのち君おこる。蓮ありてのち沼あるにあらず、沼ありて、のちにはじめて蓮生じるものなり」
という金次郎の言葉を噛みしめるべきであろう。
こうして青木村仕法は最終的には失敗に終わるのだが、天保の飢饉で餓死者を出さなかっただけでもその功績の大きさは計り知れない。その後も彼は村民を見捨てず、困窮者には報徳金の融資などを続けた。
後年、青木堰が再び大改修された際、金次郎の頃に使われた材木は付近の薬王寺(もみじ寺として知られている)の山門として再利用され、現在では山門横に二宮金次郎の銅像が建てられている。
村民たちはその山門をくぐるたび、金次郎の偉業を偲んだのである。

薬王寺山門(著者撮影)
薬王寺山門に立つ著者
  • 本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で1ヵ月遅れで転載させていただいております。

  • 次回は12月20日更新予定です。