【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #36
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第36回 青木仕法の結末
天保8(1837)年も全国的に飢饉が続いていた。
全国で百姓一揆が多発し、大坂では歴史上有名な「大塩平八郎の乱」が起こって幕府の屋台骨が揺らぐ事態さえ発生していたにもかかわらず、桜町領と青木村はどこ吹く風であった。
しかし好事魔多し。この天保8年、青木村に疫病が発生する。
この時の援助費用は、青木村仕法余剰金より無利息7年払いで貸付けられた。日頃から推譲しておくことは、こうした不慮の出来事への備えとなったのである。
天保10(1839)年、青木村での第一期の仕法が完了した。領主川副氏は大いに喜び、なんと金次郎に知行地10ヵ村の仕法実施を要請した。
一度に実施するのは無理なので、特に困窮の激しかった加生野(かようの)村(現在の茨城県石岡市加生野)から開始されることとなった。
加生野村は青木村の南にある足尾山と筑波山の反対側にある村で、石高75石、戸数14軒の小村である。多くの負債を抱えていたので、仕法の重点を報徳金の貸付による荒地開発にしぼり、青木村を手本にして再建が進められていった。
ここで、青木村仕法のその後について触れておきたい。
弘化元(1844)年、青木村の再建を金次郎に求めてきた名主の舘野勘右衛門は代官役を命ぜられ、新田13町余と194両を報徳金に推譲。他の名主たちもこれにならった。
仕法の結果、青木村の耕地は40町歩から70町歩に増え、年貢は25石から90石へと4倍近くなり、畑作の金納も2倍に増えた。だが残念ながら、最後までうまくはいかなかったのである。
要因は領主川副氏が分度を守らなかったからであった。
金次郎はしばしば、川副家自体の根本的な財政立て直しを進言したが用いられず、加生野村救済のようなその場しのぎが続いた。財政はいよいよ苦しくなり、借金がかさみ、そのツケが農民側に回ってくることになる。分度とは別に献納金の名目で、たびたび多額の金子を上納させられるようになっていった。
分度設定を文書化しなかったことが悔やまれた。
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で1ヵ月遅れで転載させていただいております。
次回は12月13日更新予定です。