【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #35
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第35回 夏ナスの味で知った飢饉襲来
江戸時代は時代を通じて気温が低く、数十年に一度は夏が低温になって飢饉が起こった。
その最大のものが、金次郎の生まれ年にかけて起こった天明の大飢饉であった。
天明2(1782)年から天明7(1787)年にかけて各地で飢饉が発生し、数十万人におよぶ餓死者をだした。こうした経験から、飢饉に備える知恵を当時の日本人は蓄えていた。
そして金次郎は、天明の大飢饉の約50年後に起こった、江戸時代最後の大飢饉である天保の大飢饉に遭遇することとなる。
そもそも天保年間は毎年のように凶作が続いたが、とりわけ青木堰が完成した天保4(1833)年は大雨が続き、みな不安げに空を眺めていた。初夏になっても気温は上がらず、稲の育ちも遅れがちである。
そんな中、金次郎は宇都宮にでかけたが、そこの農家で出されたナス料理を口にした際、あることに気づいた。
(秋ナスの味がする……)
夏のナスが早くに秋ナスの味になるときはおしなべて冷害になると言われている。
金次郎は桜町領と青木村に至急触れを回した。租税を免除するので、その代わり、1戸につき1反歩のヒエを蒔(ま)くよう命じたのだ。
今では雑草扱いされ、鳥の餌くらいにしかならないヒエだが、その名は「冷え」からきていると言われるくらい冷害に強い救荒用作物で、昔から幾度も飢饉を救ってきた。水田でなくても栽培可能だ。蒔いて8、90日で出穂し、短期間で育つので、他の作物との輪作にも適している。
栄養価が高いのも魅力である。問題は精白が大変で、かつまずいことだった。ことに冷めたらぱさぱさになる。
江戸時代の日本人はおかずが少なく、味噌汁と漬物以外とにかく主食の米をたくさん食べた。成人男子は平均して日に5合食べたと言われている。白米をたらふく食べることが彼らの唯一の楽しみであったわけで、コメがヒエに代わるのは彼らにすれば耐えがたいことであった。
そんなこともあって、ヒエを作ることに不服を唱える者は結構いた。
「1軒に1反歩ずつヒエを作ったらおびただしい量になります。ヒエのようなまずいものは誰も口にしたことがない。誰がそんなものを食べるものですか」
だが金次郎は例外を認めず、強制的にヒエを蒔かせた。その上で荒地や空き地を耕して豆を栽培するようにも指導した。食糧となるものを少しでも増産しておく必要があると考えたのだ。
「もし怠る者があれば私に報告せよ!」
果たして予想通り雨天が続き、時期的には真夏だというのに着物を重ね着する有様となった。稲は育たず、関東、奥羽では餓死者数万人が出るという大災害となった。
各地で餓死者が出たにもかかわらず、桜町領でも青木村でも食べる物には困らなかった。米相場で先物買いをしていたことも功を奏した。
12月、桜町領の村々に、各家庭五俵の雑穀を残し、各家庭で蓄えている米や麦は売るよう指導した。
「今の米価は史上最高値であり、もう二度とこんなことは起こらない。今こそ売り時だ。売って金にしておきなさい。使途がない場合は相当の利息をつけて預かろう」
このことで翌年以降、領民の家計が潤ったことは言うまでもない。報徳金が潤沢であったのは、こうした金次郎の指導の賜物だったのである。
青木堰が完成したことによって、村はめきめきと復興していった。
田には水が満ち、青木村のみならず、付近の高森村、羽田(はんだ)村まで潤い、村々の様子は一変した。減少していた農家の数も次第に増えていった。
天保4(1833)年には14町4反もの新田が開かれ、領主川副氏への分度以上に収穫された余剰米は、報徳金の返済のほか村の復興資金に充当され、道路の整備、ため池の造成、堰普請(毎年の補修分)、用水路の開鑿(かいさく)等を実施。村人の士気もあがった。
金次郎は青木村でも表彰制度を活用した。出精奇特人の一番には鍬(すき)3挺(ちょう)、二番には鎌5挺の褒美を与えている。
生活の苦しい者には種籾(たねもみ)、肥料、鍬などを貸与。みな競って励むようになり、天保8(1837)年には、年貢以外に冥加米(みょうがまい)(領主に対するお礼米的性格)218俵を出せるほど裕福な村となった。
本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で1ヵ月遅れで転載させていただいております。
次回は12月6日更新予定です。