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【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #19

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第一九回 きのの離縁と波との再婚

乳幼児死亡率の高かった当時のこと、生まれて間もない子どもの死は珍しくなかったが、このことはきのを絶望のどん底に叩き落とした。怒りや恨みの矛先は、家のことをないがしろにしている金次郎に向かった。
もう無理だと心折れてしまったきのは、
「私は二宮家の家風にはあいません。どうぞ離縁にしてください」
と申し出てきた。
(なんと私は、自分の足下が見えていなかったのか…)

金次郎は生涯でこれほど反省したことはなかった。考えてみれば結婚以来、服の一枚も新調してやったことがない。
「せめて畑に綿を蒔いて、秋にその綿でほしいものを織って実家に持ち帰りなさい」
『報徳記』によれば、金次郎はきのにそう言ったという。
金次郎はここまで来てもまだ気づいていなかったのだ。自分の考え方が常人とは違うことを。おそらく、きのはこの言葉にさらに絶望したに違いない。
手元の金で服を買って持たせてやるというのならいざ知らず、自分で綿を作って収穫して糸に紡ぎ、さらにそれを織って持って帰れと、さも恩情をかけているかのごとくに語るこの男に、自分は絶対についていけないと確信した。
金次郎の慰留を振り切って、きのは逃げ帰るように実家に戻っていった。文政二年三月のことであった。金次郎は親しい友人を通じて五両の金を慰労金として贈った。
再び築けたかに思った家庭が、わずか二ヵ月で崩壊してしまったのである。
(すべては私の責任だ)
金次郎はしばらく放心状態となってしまった。

一方で、もう一人責任を深く感じている者がいた。ほかならぬ服部十郎兵衛である。金次郎の多忙の原因を作ったのは自分だからだ。
(こうした場合は、すぐ後妻をとるに限る)
十郎兵衛は服部家の奥女中であった岡田波(なみ)(奉公中の女中名は歌、当時数え一六歳)を紹介してくれた。
栢山村の隣村である足柄下郡飯泉村(いいずみむら)の組頭岡田峯右衛門(弥吉)の娘で、しっかり者として知られていた。金次郎より一八歳年下である。きのとの時以上に年齢が離れているが、十郎兵衛の気遣いに感謝し、この縁談を受けることにした。
文政三(一八二〇)年三月二七日に結納を結び、四月二日、祝言を挙げた。
雨降って地固まるということはままある。以前よりお互い知らぬ仲ではなかったことも功を奏し、夫婦仲はことのほか良好だった。男女二人の子に恵まれ、波はその後もしっかりと金次郎を支えていく。
金次郎がかつて観音堂で祈った勝福寺には、現在「二宮尊徳夫人生誕の地」の顕彰碑が建てられ、賢夫人として知られた波の遺徳を今に伝えている。

きのと離縁する前年の文政元(一八一八)年、金次郎は小田原藩主大久保忠真から表彰を受けている。
ここで金次郎の人生に大きな影響を与えた大久保忠真について触れておきたい。
現在の小田原では、北条は知っていても大久保という藩主がいたことなど知らない住民が多い。小田原城に行っても、北条の家紋であるミツウロコの旗は翻っているが、大久保家の那須(なす)藤(ふじ)の家紋など見たことがない。
だが小田原藩一一万三千石を治めた大久保家は、家康の重臣だった初代藩主忠隣(ただちか)以来、何人もの老中を輩出した譜代の名家であった。

小田原城

金次郎より六歳年上の忠真は、寛政八(一七九六)年に家督を継ぎ、第九代藩主となっている。
享和四(一八〇四)年に寺社奉行に就任すると、その後、大阪城代、京都所司代と譜代大名のエリートコースを驀進し、文政元年八月二日、松平定信の推挙により、ついに老中に就任。
以来、天保八(一八三七)年に没するまで、一九年もの長きにわたり老中の職にあり、最後の二年は現在の総理大臣に匹敵する老中首座であった。老中首座に上り詰めたのは歴代大久保家当主でも第三代忠朝(ただとも)と忠真だけである。

  • 本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。

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