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【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #18

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第一八回 金次郎の大失敗

文化一五・文政元(一八一八)年三月、再び金次郎は服部家に住み込んで財政再建計画を実行に移すこととなる。服部家の若党になった日から六年の歳月が過ぎていた。
「向こう五年間、私の申し上げることに従っていただくということでよろしいですね」
「もちろんじゃ。林蔵に全てを委ねよう」
「まずはお着物からして、内向きは木綿にしていただきます」
「わ…わかった」
こうして主人の言質を取った上で、使用人たちを全員呼び集めた。
「この度、ご主人様は私に服部家の借財返済を任せて下さるとおっしゃった。皆にも私の指図に従っていただかねばならんが、なかなか厳しい道が待っている。もし異存があるなら今のうちに暇を取っていただきたい」
五常講で金次郎の信用はすでに高い。彼らに文句があろうはずもなかった。
「みんなありがとう。ではさっそく今から鍋炭(なべずみ)を落としてもらいます」
(えっ?)
金次郎はまず、彼らができる身近なことから始めさせたのだ。その一つが、鍋底についた炭を削らせることだった。そうすることにより、飯炊きの際に火の通りが良くなり、薪の節約になる。
加えて炊き方は「報徳飯の焚方」を伝授した。
薪三本で鍋の底に三方から火が当たるようにする。間が空いているから酸素が通い、薪が完全燃焼しやすい。なおかつ、消し炭の火力も無駄にしない。そして炊き終わった後は再び釜の底の鍋炭を落とし、鍋の底はいつもピカピカにしておく。
削った鍋炭さえムダにしない。一合たまるとそれを買い上げた。こうした工夫により米を炊く薪が一定量より少なくて済んだときには、残った薪を買い取った。
また日用品の油やおしろいなどを出入りの商人から各自で買うのを禁じ、一括して購入することにした。一括なら安く買える。代金との差額は各人別に貯金してやった。
後年、ある女中が親の病気で国元に帰る際、相当の心付けとその貯金を渡して感激されたという。
「食事は一汁一菜とする。これはもちろん私も同じだ。例外は認めない」
服部家の奉公人たちには節約意識の徹底が図られた。

だが皮肉にも、そこまでしても服部家の借財は減らなかった。
初年度こそ多少減ったが次年度からかえって増加し、三年目の文政三年末には合計三六八両余に借金は増えていた。十郎兵衛が家老を拝命して初の江戸詰となったため、多額の出費を要したことも背景にあったが、焦った金次郎が大きな失敗をしていたのだ。
それは米相場だった。
米問屋の武松屋と仲良くなり、米の売買の委託をしていたことについては先述した。
米相場にも強い関心を持っていた彼は、満二一歳であった文化五(一八〇八)年から、日記に年末の一〇両換算の米価を記録し始めている。

  • 文化五年 一九俵

  • 文化六年 二八俵七分

  • 文化七年 二七俵二分

  • 文化八年 二六俵

  • 文化九年 二五俵七分

  • 文化一〇年 三二俵

  • 文化一一年 二三俵二分 

  • 文化一二年 二九俵

  • 文化一三年 二七俵三分

  • 文化一四年 二一俵二分五厘 

  • 文化一五年(文政元年) 二五俵

  • 文政二年 三〇俵七分

  • 文政三年初 三三俵

ここで彼は気がついたのだ。文政二(一八一九)年、米価は三年連続で大きく下落し、文政三(一八二〇)年に入っても下落傾向を示している。さすがに底を打って上昇する確率が高い。
金次郎はこれに賭けようとした。自分の金儲けのためではない。服部家の借金返済のためにである。
文政三年、彼は一六三六俵もの米を売買した。
だが金次郎の予想ははずれた。購入時には一〇両三二俵前後であったのが、売却時には三七、八俵になってしまっていた。三年前が二五俵、四年前が二一俵であることを考えると、考えられない下落幅だ。だが結果は結果として受け止めねばならない。損失と利息支払いで約一〇〇両もの赤字を計上することとなった。
金次郎が面目をなくし、落胆した様子は想像するに難くない。
やむなく金次郎は、両替商を相手に借金の金利の減免についての交渉を始めた。高金利のものについては五年割賦を確約する代わり利子を引き下げてもらった。なかなか話がまとまらないものについては、小田原藩から低利の借り換えをするようお願いして何とかしのいだ。

獅子奮迅の働きをしていた金次郎だが、私生活では逆に悲劇が訪れていた。
夫が不在で寂しい思いをすることが多かったきのだが、やがて身ごもったことがわかり、さすがに子どもができたら家庭を顧みてくれるだろうと一縷(いちる)の望みを繋げていた。
文政二(一八一九)年一月一八日の早朝、長男徳太郎が誕生する。徳の字を付けていることから、彼がすでに報徳の精神を強く意識していたことがわかる。
跡取り息子の誕生を金次郎も大いに喜んだ。
ところが、である。徳太郎は生まれた翌月の二月二日、早くも幼い命を散らしてしまうのだ。

右の戒名が末弟の富次郎、左の戒名が徳太郎のもの
  • 本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。

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