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【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #20

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第二〇回 酒匂川河原での表彰

酒匂川での表彰は、老中就任のため江戸に向かう途中の出来事であった。
文政元年一一月、酒匂川の河原に、孝子(親孝行な者)一名、出精奇特人(しゅっせいきとくにん)(ことのほかよく働いた者)一二名を集めて表彰を行った。
その出精奇特人の筆頭が金次郎であった。選出する関係者に二宮一族の者が加わっており、生家の復興などが評価された結果だった。
「酒匂川表彰の図」という、この時の情景を描いた絵が残されている。貴人は顔を見せない。駕籠(かご)の中から忠真がねぎらいの言葉を述べ、一同はその前にずらりと並んで平伏している。
この時、忠真は金次郎にこう語りかけたという。
「そなたはかねがね農業に精出し、心がけがよいと聞いた。近頃惰弱(だじゃく)な風俗の中にあって奇特なことであり褒めてつかわす。いよいよ励むように」
金次郎はこの時の高揚感を終生忘れなかった。その記憶が後の農村復興事業において、積極的に表彰制度を導入していくきっかけとなった。
(自分が藩主様であったなら、農民を表彰するというようなことを思いついただろうか?)
金次郎はそう考えた。
金次郎の終生変わらぬ姿勢として、いつも為政者が国なり藩なりを治める困難さに思いを致し、深い敬意を抱き続けていた点が挙げられる。不平不満ばかり言わず、まずは相手の立場に立って考える姿勢を忘れなかった。
彼が晩年に書いた『尊徳教説』には、神代から徳川家にいたる為政者の恩を思うべきだと説かれている。治める者と治められる者、互いに対する敬意があってこそ社会は繁栄することに金次郎は早くから気づいていたのだ。

一方の忠真にとっても、酒匂川での顕彰は終生忘れ得ぬ思い出であったようだ。
忠真は大阪城代になったとき、自戒の歌を詠んだ。
――位山のぼりて見ればいと高し いや忘れめやもとの心を
そして老中になって詠んだ歌が次のものである。
――身にかえてとわにぞ思う万民(よろずたみ) 所を得つつ富み栄えねと
この歌には「かくは詠みたれど、よろずまつりごとの道に違(たが)えること、いと多かるべしと、恥ずかしきことにこそ」と後書きが記してあった。
金次郎は実に良き藩主を戴いていたと言えるだろう。この名君大久保忠真が金次郎を世に出してくれることとなるのである。

現在の酒匂川の河原

酒匂川河原での表彰には後日談がある。
二年後の文政三(一八二〇)年、藩主大久保忠真は表彰した人々に建議を求めたのだ。
当時、金次郎は服部家の仕法に取り組んでいたが、求めに応じて二つの献策を行った。
一つは年貢米を貢納する際の枡の規格統一である。
小田原領では枡の種類が一八種もあり、そのため一俵の容量が四斗一升から四斗三升まであった。これでは同一領内で年貢に不公平が出るし、小作料の収納の際にも米の売買取引でも不都合が生じてしまう。
もう一つは藩からの低利資金融資制度の導入である。服部家で行っていた五常講を藩レベルに拡大しようというわけである。
「信をもって借用し、信をもって返済すれば、困窮を救うことができます。まず藩士の負債額を調べ、収入と比較してそれぞれの分度を立てさせます。その上で藩からの下賜金に加え、領内の富裕な者から出資金を募り、これを藩士に低利で貸し与えるのです」
この二つの建議は、二つとも採用された。

ところが、この時代らしい残念な真実があった。献策したのは金次郎のみだったのだ。
みな農民の身で藩主に対して提言するなど畏(おそ)れ多いと考えたのだ。建言しなかったからと言って罰せられるわけではない。逆に、藩士に不利なことを献策して恨みを買ったらどんな仕返しをされるかわからない。触らぬ神に祟(たた)りなしというのが〝世知に長けた〟〝世渡りのうまい〟者の共通した思いだったのである。
このことを見てもわかるように、金次郎の思考と行動は、当時の庶民としては規格外であった。彼は、社会がよくなるのなら自分が損をすることを顧みない。まさに〝乃公出でずんば(自分がやらねば)〟という義侠心が彼を突き動かしていたのである。
金次郎は建具職人に依頼して、四斗一升入りの改正枡を作り提出した。
褒美として翌年の年貢米を二俵免除されている。現在価値にして二四万円ほどであろうか。たいした金額ではない。
彼の義侠心への見返りは、いつも割に合わないものであった。

  • 本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。

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