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【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #08

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第八回 父利右衛門の死

寛政一一(一七九九)年、金次郎は満一二歳になっていた。この年、三男の富次郎(とみじろう)が生まれている。母よしは乳をやらねばならない。ちゃんと乳が出るよう滋養のあるものを食べてもらわねばと、金次郎は農作業に精を出す一方、近所の子守なども積極的に買って出た。
ある日、松の苗(なえ)を売っている老人が、通りがかりの金次郎に声をかけてきた。
「ちょっとお前さん、松の苗を買わんかね?」
「生憎うちは貧乏なのです。もっと金持ちの家に売っては如何ですか?」
洪水で家産は傾き、そんな余裕などない。ところがその老人はもう金次郎に売ると決めているような物言いをし始めた。
「いや、金持ちは情がないから、売るならお前さんのような人間に売りたい。何年も経れば立派な林になる。松は縁起がいいよ」
「うーん…」
しばし思案した金次郎は、
「うちの家に植える庭はないですが、ほかに植えるあてがあります。安くしてくれるなら買いましょう」
ちょうど子守の駄賃にもらった金が手元にあったのである。
「えっ? どうなさるつもりじゃ?」
「うちの家に植える代わりに、酒匂川の堤に植えようと思いまして。そうすれば今に松林になって、洪水から堤を守ってくれましょう」
「おお、お前さんはなんという!」
その苗売りは金次郎の志操(しそう)の高さに感じ入り、特別に安くしてくれた。
金次郎はその後も、子守の駄賃や草鞋を売った金の一部で苗を買い、何度かに分けて酒匂川の坂口堤に植えに行った。冬の普請も含め、堤であまりにも彼が頻繁に見かけられたので、そのうち〝土手坊主(どでぼうず)〟というあだ名を頂戴した。
少しずつ植えていくうちに、ついに彼の植えた松の苗は二〇〇本を数えた。噂は周囲にも広がっていく。
「そういうことなら、わしたちも買おうじゃないか」
同様に苗を買って植えるものが出てきたため、今では酒匂川には四〇〇本もの松の大木が並び、川を氾濫から守っている。
ちなみに『二宮尊徳』大藤修著は、長年の研究により従来の二宮金次郎の逸話に誤伝や創作が多くあることを指摘するすぐれた著作だが、昭和一〇年刊行以前の書物には松苗植えの話が登場しないことを理由に後世の創作であろうとしている。
だが筆者が調べたところ明治四三年刊行の『二宮尊徳』森暁紅著に、すでにこのエピソードは描かれている。堤防の松のすべてを彼が植えたわけではなかろうが、幼い頃の金次郎が率先して松を植えたことはすでに有名な逸話だったのではないだろうか。

現在の酒匂川堤防の松林(著者撮影)

三男富次郎が生まれた翌年の寛政一二(一八〇〇)年、二宮家に不幸が襲う。
利右衛門の病が急に篤(あつ)くなり、薬石効(やくせきこう)なく九月二六日、ついに息を引き取ってしまったのだ。享年四六。
金次郎は一三歳にして家長の重責を担うこととなった。相続時の田地は七反五畝(せ)二九歩(ぶ)(〇・七四ヘクタール)。利右衛門が家を継いだときには二町三反二畝二二歩だったことを考えると、その多くを売ったり質に入れてしまっていたことがうかがえる。
家長の死の重さは今の比ではない。母よしの落胆は傍目(はため)にも気の毒なほどであった。
耕作の邪魔になるからと、まだ乳飲み子である幼い富次郎を西栢山に住む弟の奥津甚左衛門のところに預かってもらうことにしたが、数日経った時、金次郎は夜中によしが布団の中で嗚咽していることに気がついた。
「おっかさん、どこかお悪いのですか?」
「乳が張って寝られないんだよ…」
だが、乳が張るだけでそれほど泣くはずはない。金次郎はよしが幼い我が子を手放した寂しさから泣いていることに気がついた。母から離された富次郎もお腹をすかせて泣いているに違いない。夜も更けていたが、金次郎は意を決してこう言った。
「おっかさん、富次郎はやはりうちで育てましょう。私が今までの倍働きます」
よしは健気な言葉をかけてくれる金次郎に、伏し拝むようにして感謝した。
「では早速!」
なんとよしは出かける支度を始めた。すでに子(ね)の刻(午前零時頃)を回っている。金次郎はあわてた。
「いえ、明日の朝、私が連れてきますから。おっかさんはお休みになって下さい」
必死に説得したが、よしは聞こうとしない。
そのまま家を出ていったので、心配になり一緒について行くことにした。夜中に訪ねてこられた弟夫婦も驚いただろうが、こうして奥津家から富次郎を連れ戻すのである。
いじらしい母の姿は金次郎の心に火をつけ、これまで以上に農作業に精を出し始めた。

碑はもちろん案内板の文字も読みづらくなっている二宮金次郎松苗植樹顕彰碑(著者撮影)
  • 本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。

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