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【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #11

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第一一回 「積小為大」開眼

農家の一大行事はなんと言っても田植えである。
例年この時期になると周囲の村人の協力も得て、苗代(なわしろ)で育てた苗を、田植え歌を歌いながらリズミカルに植えていく。農作業でありながら一種のリクリエーションであり、人々の表情も明るい。
だが金次郎は田植えの際に出る「捨て苗」のことがいつも気になっていた。
(もったいない…)

生家跡付近で見た捨て苗

稲は間隔を狭めて植えるとかえって収穫量が減ってしまう。少し苗が余るくらいの数を苗代で作るのが合理的だったのだが、余った苗をどうにかできないかと考えた。
そこで彼は洪水で使用不能になっていた用水路を掻(か)きならし、捨て苗を集めて試しに植えてみた。するとそこそこの実りが得られ、米一俵分ほど(約六〇キロ)の収穫を得た。
先述の菜種もそうだが、小さいことでも積み重ねていけば大きな収穫をもたらす。
(小さいことの積み重ねを馬鹿にしてはならない)
しみじみそう感じた。

捨て苗栽培地跡

こうして金次郎は「積小為大(せきしょういだい)」(小さいことを積み重ねていけば大きくなる)に開眼した。
この言葉は二宮尊徳の教訓として人口に膾炙(かいしゃ)している。これこそが彼の成功の第一歩だった。

〈大事を成さんと欲する者は、まず小事を務むべし。大事を成さんと欲して小事を怠り、その成り難きを憂いて、成り易きを務めざる者は、小人の常なり。それ小を積めば大となる〉

『二宮翁夜話』福住正兄著

金次郎は菜種を油にした際、一部は売って金に換えた。
この時、彼が買ったのは筆と硯、そして『算書』であった。和算についての書物である。本好きの彼が人生で初めて自分の金で買った本であった。
金次郎は計算に明るく、加減乗除は勿論、複利計算などもできたと言われている。若くして、そうしたことの重要性を理解していた証拠と言えるだろう。

若い頃の金次郎の聡明さについては数多くのエピソードが残されている。
彼が満一二歳頃、珍しく時間が出来た彼は隣村の飯泉村(いいずみむら)の勝福寺(別名飯泉観音)に参詣し、観音堂で座禅していた。曾我兄弟が日参して敵討ちを成就させたことで知られる寺である。
するとそこに旅の僧があらわれ、お経を読み始めた。
静謐(せいひつ)な境地に入っている金次郎の心に、その経の内容は驚くほど素直に染み入っていき、心洗われる思いがした。
感動した彼がその僧に、
「それは何のお経でございましょう?」
と尋ねると『観音経』だという。

そこで僧にお布施を渡し、もう一度唱えてもらった。今度はさらに内容がよく分かった。
嬉しくなった金次郎は、栢山村に戻って菩提寺である善栄寺の住職に会い、『観音経』の功徳(くどく)がいかに広大無辺なものであるか目をキラキラさせながら熱心に語ったという。
住職は、彼の理解の深さにいたく驚かされた。金次郎の思考は形あるもののみならず、哲学的な形而上の世界にまで広がりだしていたのである。

〈「観」とは目で見るという字ではない。心眼で見るという字だ。よくよく考えるがよい〉

『二宮翁夜話』福住正兄著

文化元(一八〇四)年、満一七歳になったのを機に、彼は万兵衛のところを出て、元の屋敷跡に掘っ立て小屋を建てて住み始める。
その上で名主である岡部伊助のところで働き出した。
金次郎は気づいたのだ。万兵衛は親戚である。そこで一生懸命働いても、それは万兵衛家の収入にしかならず、生家の再興はおぼつかない。他家で働けば、余った時間でその家の田畑以外も作ることができる。実際彼は、岡部家に奉公しながら余耕の五俵を得た。
翌文化二(一八〇五)年には親戚である二宮七左衛門のところに住み込み、廃田復旧を進め、余耕の二〇俵を得た。
彼はまさに、積小為大を実行に移し始めたのだ。

この頃から金次郎は日記と覚え書きを兼ねた記録(『日記万覚帳』)を書き始め、晩年まで五〇年ほど書き続けている。彼の行動の多くが、これによって今に伝わっているのである。
文化三(一八〇六)年、金次郎は他家で働いた給金を貯めて父が質入していた田地を三両二分で一反(一〇アール)に二〇歩足りない九畝一〇歩だけ請け戻した。後に彼はこの田地請け戻しを〝開運の始まり〟だったと語っている(『二宮尊徳』大藤修著)。

  • 本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。

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