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【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #06

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第六回 病床に伏した父利右衛門

口減らしとして、弟の友吉は寺に出された(しばらくすると寺の厳しい生活に耐えきれず逃げ出してくるのだが)。
利右衛門は好きな酒も断って荒れ地を耕し、よしは石ころをのけ、金次郎は草むしりをしたり草鞋(わらじ)を編んだりと、幼いながら家の手伝いをした。弟の子守のついでに近所の子どもの子守も買って出て駄賃をもらったりした。
この〝駄賃をもらう〟という体験は、彼の現金収入を大事にする生き方に結びついており、後にこう語っている。

〈貧乏な百姓が草を刈りたいが鎌がない。そこで困って隣から借りる。これが貧乏をのがれられないわけである。もし鎌がなくて困れば、隣の日雇いになり、賃銭をもらって鎌を買うに越したことはない。そうすれば一日のかせぎで鎌が自分のものになる。これがとりもなおさず天照大神の開国の道であって、およそ貧をのがれ富をいたす方法は、この道理をおしひろげさえすればよいのだ〉

『二宮先生語録』斎藤高行原著・佐々木典比古訳注

学問にも励んだ。
七歳くらいになると寺子屋に行くことも多かったが、彼が寺子屋に通ったというのは記録でも伝承でも確認できない。そんな余裕など無かったのだろう。
ただこの当時、どこの家の子どももしていたように箱に砂を敷き、その上に字を書いて覚えていった。金次郎は熱心で修得も早く、しばしば利右衛門を驚かせたという。彼が使った自作の「砂書習字手文庫(すながきしゅうじてぶんこ)」は、今も小田原市尊徳記念館に現存している。
読み書きだけではない。当時の農家では筆算ができることが必須だった。金次郎はこれにも打ち込み、人一倍計算が速くなっていった。
貧しくなると余計に家族愛が強くなっていった。金次郎は親孝行だ。草鞋をたくさん作って町に売りに行くと、代金の一部で利右衛門のために時には酒を買って帰った。
「おおっ、金次郎すまんな」
子どもに買ってもらった酒はことのほかうまい。利右衛門は目を細めながら自慢の息子を頼もしげに見つめていた。

木造 砂書習字手文庫(引用元:おだわらデジタルミュージアム

五年ほどかかったが、なんとか食べていけるほどに農地を復旧させることができた。
そこで利右衛門は一念発起し、寛政八(一七九六)年の正月、伊勢参りに出かけることにした。この当時、階層を問わず、人生に一度は伊勢神宮に参る風習が広まっていたのだ。
伊勢参りはおかげ参りとも呼ばれる。二宮家も神様の〝おかげ〟でなんとかなりそうだ。そしてもうこれ以上不幸が訪れないよう、神に祈りたい気分になったのだろう。
江戸から片道一五日の行程だったというから、栢山からなら一三日ほどだっただろう。
二宮家にそんな金銭的余裕があったのかと思われるかもしれないが、当時は伊勢参りをする者を助けるのも信心につながるということで、沿道の人々が布施をしてくれた。そのため金をかけずに行くことができ、通行手形もほぼ無条件に手に入れることができたのだ。
だが皮肉にも、この伊勢参りが徒(あだ)となった。
伊勢参りから帰ってすぐの寛政九(一七九七)年、利右衛門は病を得て床に伏したのだ。それまでの心労が、知らぬ間に利右衛門の身体をむしばんでいたのである。
近くに住んでいた医師村田道仙(どうせん)が熱心に治療してくれたが、そう簡単に治る病ではなかった。
金次郎が満年齢で一〇歳の時のことである。

彼は父に代わって農作業に励んだが、農民の仕事は自分の田畑を耕すことだけではない。農閑期になると坂口堤の治水工事の夫役(ぶやく)をせねばならなかった。
先年の洪水の際に堤はひどく傷んでいる。蛇籠(じゃかご)と呼ばれる竹で編んだ籠に石を入れて沈め、その間に砂利を詰め、最後に土で固めていく。金次郎も大人に混じり、もっこに石や砂利を載せて運んだ。
金次郎はしっかりした身体をしていたが、それは見た目だけのこと。筋力では大人にかなわない。力仕事は荷が重かった。天秤棒(てんびんぼう)が肩に食い込んで、皮膚が破れ血がにじんだ。冬になると川面を渡る風は冷たく、手がかじかんでしもやけになった。
夫役には、一五歳未満の子どもや六一歳以上の老人が参加した場合は多少の〝手不足料〟を払うのがしきたりだったが、金次郎の家には金がない。誰よりも朝早く現場に行って、遅くまで仕事をし、非力である分を挽回した。

  • 本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で一ヵ月遅れで転載させていただいております。

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