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【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #44

二宮尊徳はどんな人か。かう聞かれて、尊徳のことをまるで知らない人が日本人にあったら、日本人の恥だと思ふ。それ以上、世界の人が二宮尊徳の名をまだ十分に知らないのは、我らの恥だと思ふ。

武者小路実篤

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第44回 報徳社運動の原点

下館仕法の特長は下館信友(しんゆう)講が組織されたことにある。

維新後、報徳社運動は地方改良運動の一環として広く展開されたが、この報徳社運動の原点となったのが、天保14(1843)年に創設された下館信友講と小田原宿報徳社(後の小田原報徳社)だと言われている。
下館信友講は下館(47名)と江戸(18名)とで別個に組織された藩士のみによる互助会組織だ。
具体的には、1人が1日4文ずつ積み立て、加入者の入札によって融資対象者を決め、無利息7年分割で貸し出し、返済し終わった後、冥加金として貸与された金額の7分の1(1年分)を信友講に推譲するという仕組みだ。ただし、後継者が幼年であった場合などは、冥加金の推譲は免除される特例があった。
臨時の出費がある際には緊急貸与も行われた。弘化3(1846)年に天然痘が流行した際、緊急貸与として12人に2分から1両が貸し出されている。その他、養母大病、娘縁付などといった理由で緊急貸与が行われたが、これには保証人2名が義務づけられ、1年限りのものであった。保証人の設置と短期貸付にすることで焦げ付きを防いだのだ。
金次郎も20両の加入金を出し、彼らの活動の背中を押した。
もう一方の小田原宿報徳社は、天保14年4月、この前年に幕府に出仕し、名を尊徳と改めた金次郎が報徳金160両を拠出したことに始まる。
草創期の世話人や構成員の中にはアウトロー的な者も含まれていた。甲州八代郡成田村(現在の山梨県笛吹市御坂町成田)の生まれで、同地を出奔し、小田原の地にたどり着いた竹本屋幸右衛門もそのうちの1人だった。
当初の小田原宿報徳社では竹本屋の存在感が大きく、彼の出身地である成田村に報徳社が設立される際には小田原宿報徳社から報徳金を渡し、本社と分社の関係を築いた。

一方、嘉永元(1848)年12月、遠州の地で、岡田佐平冶(おかださへいじ)、安居院義道(あぐいよしみち)の指導の下、牛岡報徳社(後の大日本報徳社の母体)が設立される。この動きについては後に詳述する。
下館信友講と小田原宿報徳社を嚆矢(こうし)とし、報徳社はその後各地に誕生。全国1,000社におよんでいた報徳社は、大正13(1924)年、大日本報徳社を本社とする大合同が行なわれ、今に至っているのである。

掛川の大日本報徳社(著者撮影)
  • 本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で1ヵ月遅れで転載させていただいております。

  • 次回は2月21日更新予定です。